授業準備メモ2(敬愛大学「教育原論」5月11日)

テーマ 教育思想について
文系の研究者は、誰か一人以上の思想家を深く研究していると思う。教育社会学の分野で言えば、デュルケームやウエーバー、マンハイム、マートン、ミード、パーソンズ、フーコーなど、研究し甲斐のある思想家は多くいる。その思想を人となりや生活も含めて知ることにより、その人の思想やその論理展開を学ぶことができる。
私の場合は、残念ながら、そのような研究をしてこなかった。その為、教育思想に疎く、教育思想に関して、的確にわかりやすく説明できない。しかし、ここは「教育原論」の授業なので、1回は、そして今日は教育思想について説明したい。(教員採用試験でも、教育思想に関して出題されることが多い。)
まず、テキスト『教育の基礎と展開』(学文社、2016)の2章の前半部分(pp.10〜16)に目を通してほしい。本学の中山幸夫教授が、西洋の代表的な教育思想家7人に関して的確な解説を書かれている。私なりにその要点を書き出せば、下記のようになる。(第2章「教育の思想と歴史」 執筆 中山幸夫・敬愛大学教授)
要約
教育思想とは、教育について考えられたことを体系化したもの。それは人間観に基礎づけられている。西洋の人の代表的な7人の教育思想に関して、その思想家の生い立ちや経歴も含めて説明する(以下は、その教育思想の内容の核心部分のみピックアップ)

ルソー(1712〜1778年)-人間の本性を押さえつけず、人間の本性に従った教育のあり方を説く新しい人間観(子ども観)を誕生させた。主著『エミール』では、子どもには固有の活動がある、子どもには自ら成長発達しようとする内在的な能力が備わっているとして、内なる自然に従って教育を行うべきことを説いた。
ペスタロッチ(1746〜1827年)-貧しい民衆を救済するための拠り所を教育に求めた。民衆学校を設立し、知・徳・体の調和的な発達を促す全人教育を説いた。『隠者の夕暮れ』でその概要を知ることができる。
フレーベル(1782-1852年)-幼児教育の重要性に注目。幼児の遊び道具として「恩物」を考案・制作した。フレーベル幼稚園は、彼の教育思想と理論の実践の場であった。
モンテッソーリ(1870〜1952年)-感覚訓練の為の教具を考察。幼児期の「敏感期」に注目。モンテッソーリ・メソッドを考案。世界各地に普及。
コメニュウス(1592〜1670年)-近代公教育制度の元を作る。すべての子どもたちが貧富の別なく入学・進学できる学校体系の提案。『大教授学』が主著。
コンドルセ(1743〜1794年)-フランス革命の自由、平等、博愛の精神で、公教育の政治や宗教的権力からの独立性を提起。学校分布の平等性など、近代学校制度の基本を作る。
デュ―イ(1859〜1952)―学校は「小さな共同社会」。シカゴの実験学校で、実践、実験的取り組みをする。伝統的な一斉授業中心の学校教育を作業中心の活動的な学習の場に変える。問題解決と自己実現を目指す。民主主義の為の学校こそがデューイの目指した学校像。主著『学校と社会』『民主主義と教育』。

次に、配布するプリントを見て、教育思想家の生きた時代の一覧表を作ってほしい。さらにもう1枚のプリントを読んで現代に至る代表的な教育思想家の思想内容を読み取ってほしい。

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このような作業のなかから、現代のわれわれの教育の考え方や制度の中に、先人の教育者の思想が根付いていることを知ることができる。

授業準備メモ ー神田外語大学、「教育社会学」5月13日

テーマ 学校の社会的特質について
学校の社会的特質について、先週に引き継ぎ、お話ししようと思います。皆さんの先週の授業に対するコメントを読ませていただくと、私の話が抽象的過ぎるとか、難しいとか、もう少し教育現場に出た時役立つ話をしてほしいとか、そのような要望が少なからずありました。その点、私もご要望に沿うよう心掛けなければとは思っているのですが、ただ「教育社会学」という科目の特質上と、私の経歴(教育現場で教師をしたのは半年だけ)からして、それはかなり無理な注文で、その要望は他の教職科目で補っていただきたいと思います。教育現場を経験してきた先生方が、たくさん教職科目を教えていると思います。この科目(教育社会学)では、それとは少し違った見方を学んでほしいと思います。それは長い目で見れば、教育現場に出た時、役立つと思います。
先週は、最初に教育の社会学の方法やパラダイムに関してお話ししました。「機能主義」、「葛藤理論」、「解釈理論」、「批判理論」という4つの方法です。IMG_20160507_0003
次に、学校の特質について説明しました。一つは家庭と学校の機能の違い(家庭は子どもたちに「所属本位、個別主義、拡散性、感情性、取り換え不可能」という価値を教え、学校は「業績主義、普遍主義、限定性、感情的中立性、取り換え可能」)という価値を教えているということ。
もう一つは、学校の潜在的カリキュラムの社会的機能(たとえば、「学校で無意味な規則の黙って従う習性は社会に出たから施政者に都合のいい法律に従順に従う態度を養成する」、「退屈な授業に耐えることは社会の中の繰り返しの多い退屈な仕事に耐える態度を養う」など)について説明しました。
さらに、学校は、①カリキュラム(教科書)、②先生、③児童・生徒(友達)、④学習の場(教室)という4つの要素からなり、その重なりの部分に授業があり、そこが学校の中核だが、子どもたちは授業以外の要素からも多大な影響を受ける、ということを説明しました。
今日は、先週に配布したプリント(武内清「子どの学校生活」『子ども・若者の文化と教育』)を使って、それ以外の学校の社会的特について説明します。IMG_20160507_0002
具体的には、学校文化、教科内容、学校組織の特質、学級集団、一望監視システム、学校の階層的特質、教師―生徒関係、ホームスクーリング、教育家族、学校と子どもの今後などです。
これらの学校の社会的特質の考察から、学校とはそもそもどのようなところで、本当に必要なところなのか、子どもは学校に行かなくてホームスクーリングで学ぶという選択肢があってもいいのではないかなどということも考え、グループでも話し合い、発表していただきたいと思います。

子どものしつけーおばけ

授業の中で、日本の伝統的なしつけについて説明する時がある。その時、よく資料として使うのは、ハルミ・ベフ『日本―文化人類学的入門』(教養文庫,1977年)IMG_20160507_0001

子育ての日米比較が,文化人類学的な参与観察から鮮やかに記述されている。 あやし方の方の日米比較(アメリカは子どもに身体的な刺激を与えたり話しかけたりするのが多いのに対して、日本の母親は子どもを静かにゆすってあやすなど)の他、アメリカの母親は厳しく子どもをしかり子どもにとって母親は怖い存在でもあるのに対して、日本の母親は極力母親が子どものストレスの対象にならないようにする。 叱るときにも「超自然的な制裁の脅威,たとえばおばけ、人喰い鬼、悪魔などがでて来ていうことを聞かない子をおどすとか、神様のばちがあたるとかいう」と説明されている。

現在も、日本の子どもの絵本には、おばけに関する本がたくさんある。このように、親が脅威やストレスの対象にならないしつけは受け継がれているようだ。

今日(6日)の朝日新聞にも、そのような記事があった。

「寝ないとオバケが出るぞ…怖がらせるしつけっていいの?」(朝日新聞2016年5月6日朝刊より一部転載) <わあ、もう夜10時だ。3歳のわが娘はベッドにも行っていない。「もう寝る時間でしょ」と怒るとグスグス泣く。こんな時に一言。「あ、オバケがあそこに」。サッと表情が変わってベッド行く」とボソリ。効果てきめん、助かった。だけど、こんな脅しみたいなしつけで本当にいいの? 母子手帳を開くと、育児の解説があった。3歳ごろの叱り方について「なぜいけないのかを丁寧に伝えましょう」と書いてある。怖がらせて言うことを聞かせるのは、きっと違う。 でも、世間の親たちも困っているみたい。言うことを聞かないと恐ろしい形相のオニから電話がかかってくるスマホアプリがはやったり、生々しい地獄絵で「悪いことをするな」と説いた絵本がしつけに効くと話題になったり。共にここ数年のことだ。 「なまはげを例に考えてみましょうか」。大日向雅美・恵泉女学園大学長(発達心理学)は、「泣ぐ子はいねがあ」と、恐ろしい化け物に扮して家々を回る民俗行事で説明を始めた。 「子どもはなまはげが来るとおびえますが、両親や祖父母がそばでぎゅっと抱きしめてくれます」。悪いことをすることへの怖さを教えると同時に、守ってくれる身近な人への信頼感が増し、「この人の言うことは聞かなきゃ」となる。巧妙な構造だというのだ。 「食べちゃうぞ、というような意味に由来する『ガモ』『モウコ』などの妖怪は、各地に伝わっています」と民俗学者の飯島吉晴さんは教えてくれた。暗くなって子どもがぐずつくのを止めようと、妖怪を持ちだしたというのだ。 この世のものでない存在を通じたしつけを「自己中心的でない世界観が育まれる」と飯島さんは評価する。(宮本茂頼)

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