大学教師と講義内容

これはうろ覚えだが、社会学者のデュルケームが大学で教えた時、講義は2週間に一度程度だが、その講義内容は斬新で、新しい理論がそこで次々話されたと、聞いたことがある。
社会学者の加藤秀俊だったと思うが、大学の講義のテーマや内容は毎年変わり、必ず新しいことを講義する。そしてその講義が終わると、その内容は次ぎ次と本になる。
大学の教師は研究者であり、このように研究した新しい内容を講義し、それを本として残す。このように実践している大学教師も少なくないであろう。しかし、凡人の自分には、それができないできてしまった。

同じことを学生に話しても、その時の話し方や学生の特質によって、その内容がうまく伝わったり伝わらなかったり、受けたり受けなかったりする。それは(大学)教師としての醍醐味であろう。

私がよく話すことで、学校の潜在的カリキュラムのことがある。学校には意図して教えようとする「顕在的カリキュラム(教科書等)」の他に、「潜在的カリキュラム」というものがあり、教師が意図せずとも生徒や学生に伝わってしまうことがある。
その例として、いくつかのことをあげる。たとえば、男女で違うカリキュラムは、社会に出てからの性別役割分業を正当化する。無意味で厳しい校則を守らせることは、社会の不法な法律にも黙って従う心性を養成する、等々。
もう一つ、この例がなかなか理解されなかったり、誤解されたり、白けてしまうことがある。 
「私のこの退屈な授業に90分間堪えることができれば、これから皆さんが社会に出ていって、世の中に多い繰り返しの多いどんな退屈な仕事に耐えられますよ」と説明する。

今日(23日)の神田外語の授業でこれを、授業の終わり間際に話したが、その意味が分かってくれた人が多かったようで、笑いのうちに授業が終わったようでほっとした。
昔、上智大学の授業で、これを話した時、「自分は退屈な仕事に就く気はありません」とか、「先生の授業は退屈ではありませんよ」という見当外れのコメントをもらったことがある。
今日の学生のコメントには、「カリキュラムの内容について、先生の皮肉を含んだ話(実質的機能をもたらす)はおもしろかったです」というものがあり、私の意図は理解されたと思う。少しは私の話し方が、上手になったのかもしれない。