地区運動会―老人が活躍

学校の運動会とは別に、地区の運動会が毎年、小学校の運動場で開催される。各地区の自治会が運動場にテントを張り、そこに地区の人が集まり、地区対抗で競技が行われる。近くの高校の吹奏楽の演奏もあった。
子どもも来ているが、準備する人や参加者は老人世代が多く、老人世代の交流の場、そして3世代の交流の場になっていた。地域再生が言われる時代に、一役買っているのであろう。

自分の、そして自分の世代の歳のこと

あまり自分や自分の世代の歳のことは考えたくないが、次のように感じるのは、やはり歳のせいなのかもしれない。

いつも通る車の行き来の多い交差点で、夕方の7時半ごろまったく車が通っていない時があった。唖然として、この世から人がいなくなってしまったのか(そのような映画があったように思う)と思うよりは、自分が死後の世界にいて場所だけいつもと同じ場所にいるのかと思ってしまった。(実際は、偶然、そのように車が通らない時間帯が一瞬だけあったったということなのだが)。
また、10月10日(金)の朝の8時前のことだが、いつも小学校の前の道は登校する小学生でにぎあうのに、人影がなく、学校もシーンとしていて、上記と同じように感じた(実際は、今の学校は2学期制で、その日は秋休みで休みであることを、近所の人から聞いてわかった)

最近の新聞の動向に関して、とても的確なコメントを、知り合いの先生が書いていて感心した(私の視点 「朝日新聞の改革 「報道の公正」実践から」10月11日朝刊、朝日新聞、添付参照)。その先生とは、藤田博司さんで、以前勤めていた上智大学の教員のテニスクラブでご一緒し、スピードのある直球のストレートをよく打つ方で、一緒にダブルスを組んで、強いペアに勝ったことがある方である。新聞学科の先生で、よく新聞に論稿を寄せ、このような広い視野の方に教わる上智の新聞学科の学生は、いいジャナリスと育つだろうなと感じていた。私より1年先に上智を定年で辞められていた。
そのコラムの最後に、「藤田さんは5日に亡くなられました」と書かれていて、唖然とした。
このようなすぐれた端正な文章を書いて、すぐ亡くなられるとはどのようなことなのか。我々の世代は、いつ死んでもいい覚悟をすべき、ということなのかと思った。
藤田先生のご冥福を心よりお祈りする。

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上記の拙い文に対して、中央教育研究所の水沼文平さんから、下記のようなコメントをいただいた。掲載させていただく。

「自分の、そして自分の世代の歳のこと」を拝読させていただきました。武内先生も私も前期高齢者です。古代インドでは人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の四つに区切っていますが、私はこの区分を現実に照らし、人生を90年とし、「学生期(30才まで)」「家住期(60才まで)」「林住期(90才まで)」の三区分にしたいと思っています。こうすれば私たちは「林住期」の前半に属することになります。武内先生が交差点や小学校の前の道で感じたことは、(50才前なら単なる現象として受け止めるだけだったでしょうが)、私たち世代が無(死)の世界が近付いていることの意識の表れだと思います。兼好法師は「徒然草」で「死はいつの間にか予期していない時に後ろから迫る」と語っています。
さてここに86歳になる元大学教授のM先生がいます。背筋がピンと伸び、歩きが早く、黒を基調としたシックな装いをしています。毎朝独語と仏語の学習、Windows 8で自作のパワーポイントを作成、オーキングと週一のテニスの練習を欠かさないそうです。T研究所の派遣で東日本大震災避難児童生徒のために「いのちの授業」を継続して実施されています。先日「元気の秘訣は何ですか?」とお聞きしたら「自分の年を考えないこと」またある時は「一生勉強だという気持を持つこと」と言われました。「林住期」にあっても「学生期」の運動、おしゃれ(自己流解釈によれば異性への関心)、勉学が「元気の源」であることを教えられました。いずれ「後ろから肩を叩かれる」ことになりますが、それまではM先生のように若々しいかっこいい生き方をしたいものです。
◇水沼文平

大学教育、施設の工夫

関西大学で「国内留学」の授業が学生の発案でできたという記事を新聞で読んだ。
留学生の多い大学も意外と留学生と日本人学生の交流は少ないので、大学の授業の中に、異文化の交流を目的とする科目があるというのは素晴らしいことだと思った。外国の人との交流は、クセになるほどワクワク感があるということを、体験を通して、学生に知らしめることは必要だと思う。
大学という場は、学生の自主性を重んじる場であるが、自然のままに任せておくと、新しいことが何も起こらない場でもあり、そのきっけを大学が用意することは必要になっている。

大学の施設、設備の快適さも、今の時代に欠かせない。特に、毎日食事をとる食堂の良さは、大学の魅力の一つであろう(多くの大学教員は、研究室や教員のたまり場で食事をとっているので、学生がどのような思いで、毎日食堂でお昼を食べているのか、気が付いていないことが多い。)
新聞での紹介されていたが、神田外語大学の学生食堂が、昔ながらのものが、最近センスの良いレストラン風に一変して、びっくりした(現在のリフォーム技術はすごい)。休みの日には地域の人にも開放している。神田外語の経営陣の見識に脱帽。千葉の大学では、神田外語大学だけが人気や偏差値で上昇している。

半年に1度の卓球

このところ、半年に1回くらいの割合で参加する会がある。M卓球愛好会の会合(練習)である。
今日(5日)、たまたま時間ができたので、半年ぶりに参加した。場所は、小学校の体育館で、いつも日曜日の10時30分から2時間。
皆で、倉庫から卓球台を出し、準備体操の後、卓球練習と練習試合をする。私は10年以上前から参加し、一時は毎週参加していたが、このところ半年に1度とご無沙汰。
メンバーには、学生時代から卓球が好きで、何十年もやり続けてきたという人が多い。私のように、体を動かせれば何でもいいという「不謹慎」な人はいない。平均年齢は男性の場合60歳を優に超えている。老人クラブのような感じがしないでもない(失礼!)。
ところが、今日半年ぶりに参加したら、私を除く参加者12名のうち、私の知っている顔は6名しかいなくて、6名は新しいメンバーであった。しかも、女子中高生の姉妹が参加していて、若い人の参加で活気づいていた。孫の参加で、祖父母が舞い上がってという感じであった(若い人に感謝)。
メンバーが永く固定していて平均年齢の上昇していた卓球愛好会になぜ新しい人が入ってきたのかが不思議だったが、新しく参加した人に聞いたら、最近アップされたネットで会員募集のチラシを見て参加したのだという。ネットの効果は大きい。
https://sites.google.com/site/gongyemuzhuoqiu/
 次の半年後の参加の時には、メンバーがどのようになっているのか、楽しみだ。

個人への関心、他者(集団)への関心

 学校の道徳教育の教える内容に4領域(自分、他者、自然、社会)がある。
放送大学の院生のKさんの研究で、「道徳教育で子どもに教えるのにどの領域が重要か?」と尋ねる質問を、教師と親(保護者)にしたところ、親(保護者)は「(子どもの)自分自身に関わること」を一番に挙げ、教師は「他者とのかかわりに関すること」を一番に挙げるという興味深い差が得られたという。
 このように、親と教師では、子どもに対する思いや対処の方法に違いがある。親はわが子のことばかり考え、自分の子どもがどう成長していくかにもっぱらの関心があり、親は教師がわが子にどのようにかかわってくれるのかに注目するのに対して、教師は一人ひとりの子どもの成長や教育に注目するにしろ、学級全体の雰囲気やクラスの人間関係のことが気になり、子ども達がクラスメイトと仲よくして、学級全体で成長していってほしいと願う。
 親はわが子(個人)を見ていて、教師はぅラス(集団)を見ている。子どもの立場も親と同じで、自分(個人)を見ていて、クラス(集団)は目的というよりは手段であろう。

 大学における教員と学生の意識の違いも同様にあるように思われる。教師は自分の授業やゼミの雰囲気の人間関係を見ていて、学生は自分のことを中心に考え、それに大学の授業やゼミ、また教師がどうかかわるかに関心がある。
 したがって、学生にとって、自分の名前も憶えない大学教師というものは、「許せない」と思うのは当然で、それに大学教師は気が付いていない(自分も含め)。