日本教育社会学会65回大会(9月21日、22日)に参加する

日本教育社会学会の大会(年に1回開かれる)は、自分は大学院の修士課程の時から、毎年出ているので、今回の埼玉大学の大会への参加で、もう40回以上の参加となる。
 学会は、それぞれの分野の最前線の内容の発表があるので、大変勉強になる(それだけ、日頃自分は不勉強ということであるが)。それと、日頃離れていて会うことが出来ない人に、久しぶりに会い、話すことができる。さらに、新しい出会いもある。これだけの効用があるので、万端を廃して、出席するようにしている。
 学会参加への姿勢は人によってさまざまのような気がする。第1は、自分の専門を中心にしながらも、関連する発表を聞き、新しい知識を学ぼうとする人。これが一般的。第2は、自分の研究分野の発表のみを聞き、それ以外は聞こうとしない人。研究関心が狭いのか、高度なのか不明。第3は、学会は自分の研究の発表の場と考え、自分の発表が終わればさっさと帰ってしまう人。これは自分の研究に大きな自負や自信のある人。若い人にも多い)第4は、学会をもっぱら人との交流の場と考え、発表はあまり聞かず、会員控室や受付付近で知り合いと話し込み、懇親会や2次会参加を主にする人。
私にとっては、学会は新しい知識を仕入れる場になっている(第1のタイプ)、知り合いに会えるのも楽しい(第4のタイプ) 歳を取り顔を見せないと、皆から生きているのかどうか疑われる)。、ただ、高齢になってくると、年々、先輩世代や、同世代の出席が少なくなり、若い人が多くなり、このまま学会に出続けていいのだろうかと気持ちにもなる。それに、今更新しいことを学んでどうするのかとも考えてします。
 しかし、学会を、生涯教育の場と考え、新しい知識の習得や人との交流を楽しめばいいのであろう。

埼玉新都心と素敵なホテル

これまで「埼玉新都心」というものがあることを知らなかった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%BE%E6%96%B0%E9%83%BD%E5%BF%83)
今回。「日本教育社会学会65回大会」が埼玉大学で開催されたので、埼玉新都心にある、「ブリランテ武蔵野」(http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/18895/18895.html)に2泊した。そのホテルは、週末でも共済料金で1泊6,930円と安く、それでいて結婚式場を兼ねた豪華な造りで、部屋も広く綺麗で、朝食もおいしく、感動した(埼京線の北与野駅からも徒歩5分)。
そのホテルの周りの「埼玉新都心」を朝散歩したが、その規模大きさと、立派さにびっくり。かなりお金もかけているし、センスもよい。高層のビルが建ち並び、そのデザインは斬新で、また植えられている樹木や道路にもかなり手入れと工夫がされている。政府関係の支所がかなり入っているとのことで、このような豪華で斬新な建物が建てることができたのであろう。周囲には、高級なマンションが林立して、未来都市の様相を呈している。
「埼玉県はすごい。千葉県は負けている」と思った。「こんなところに住みたい」とも思った。
ただ、早朝、朝(9時ごろ)、夜(22時頃)と、この新都心を歩いてみて、いつも人が少ないのが気になった。平日の昼間ではないということのせいかもしれないが、人気(ひとけ)がほとんどない。朝、散歩するのに快適な道と緑が豊富なのに、人はちらほら。お互いにすれ違っても挨拶はしない。建物だけ超モダンにできて、そこに入る人がいない、いても人がその建物と雰囲気が合わないのかもしれない。
 埼京線、武蔵野線を乗り継いで、千葉県に帰ってきて、「がさがさした」(?)人の多い総武線に乗り、ほっとしている自分を発見し、千葉にどっぷり浸かっている自分を発見した。

発生と機能―リメディアルと初年次教育の対立

 ものごとのあり方を考える時、2つの方法がある。一つはその発生の起源から考える方法である。こう一つは、現在の実態や機能から考える方法である。
 前者は歴史的な視点で、そのものごとの原点やエッセンスや初発の目的がどこにあるかを探り、初心に帰る方法である。後者は、最初の意図はどうあれ、現実の中で果たしている機能に注目して、そのあり方を考える方法である。歴史的に考えるか、社会学的に考えるかの対立と言ってもよい。
 
 高等教育の分野で、リメディアルと初年次教育の対立があるという話を聞いた。前者は大学の単位として認めず、後者は大学の単位に認める。共に、大学の教育を受ける準備になる教育なのに、何で単位を与えたり与えなかったり対立するのかわからなかった。
 これも、発生と機能のどちらに注目するかに関連するのかもしれないと思った。
 つまり、リメディアル教育は、もともとアメリカなどで、大学の授業を聞いても理解できない学生(たとえば理系の基礎ができていない学生や、留学生で英語が分からない学生など)の為の、補習教育が発生の起源なので、大学の単位には認められない。(そういえば、アメリカでは、留学生の入学を仮に認めてTOEICの点が一定以上になれば、大学の授業を受講する資格ができる制度があったような気がする。)
 このアメリカの制度が起源で、それを日本の大学に取り入れたので、大学の単位にはならないと考えられたのであろう(歴史的視点)。
 ところが、日本では初年次教育でも、「読み,書き、算」のような基礎的なことを教えているので、その内容は、リメディアル教育の内容とあまり変わらない(アメリカのような語学の問題はない)。実際の機能という点から考えれば、リメディアルも初年次教育も変わらない(社会学的視点)。
 このように発生起源にこだわるか(歴史的視点)、機能にこだわる(社会学的視点)で、判断が分かれるのではないか。

この発生と機能の違いは、作田啓一や井上俊が、青年文化の機能についての説明で書いていたことのように記憶する。青年が「遊び」(遊戯)の分野に離脱するのは、発生の契機は気晴らしや逃避だったかもしれないが、そこで失敗を恐れず、自分の力の限界に挑むうちに、自立性を獲得する(機能)。

日本の人口の4分の1が高齢者

 東京に行くと、若い人や働き盛りの人が多いので、東京に行き、自分の住まいの(千葉市)稲毛(区)に帰ってくると愕然とする。老人ばかりが多い。それに犬も多い。そんなところに住んでいると、周囲に同化して、老人化が加速するのではないかと思う。
 ただ、今日のニュースで、日本の人口の4分の1(25%)が、高齢者(65歳以上)というのを聞いて、そんなに日本は高齢化(老人化)が進んでいるのかと改めて驚いた(労働人口の1割は、高齢者とのこと)。
 それだけ高齢者が多いのなら、もう少し高齢者(老人)向けの公共の施設もあってもいいし、またお店や商売(介護関係や振込詐欺だけでなく)もあってもいいと思った。
16日は敬老の日。