自分が書いた文章についての、他人の引用・解説について

先の敬愛の3年生の私の文章のコメントにも表れていたように、自分の書いた文章を他の人が、とてもわかりやすく引用・解説してくれることがある。
大学生の「生徒化」ということに関して、かって、私は、以下のように書いていたことを、他の人の引用から教えられた。もっとも、私の論を批判するために引用しているのだが。批判のポイントは、昔の大学生を理想化し、昔の大学生の多様性を見落としているというもの。この批判も、(残念ながら)ある程度正しい。いろいろ教えられる。

[以下その箇所の転載]

「生徒化」した大学生についてどのような議論がなされているか、主要な先行研究者達の意見を取り上げながら整理していきたい。
まず、大学生の「生徒化」を学生文化、若者文化の観点から捉えた研究として武内の研究が挙げられる。
武内は大学生の学生文化を高校生の生徒文化と比較した際、生徒文化の延長としての側面がある一方で、大学生の文化は高校生に比べて非常に広範な広がりと深さを持つことを指摘している12)。しかし、大学が「生徒化」すると大学生の生活は大学の設定するカリキュラムの中に組み込まれていくようになるため、大学生活における自由な時間が無くなり、そのような文化的広がりが減少してしまい13)。さらに、学生の文化には遊戯性や対抗性、特異性等の特質を持っているが、学生が「生徒化」しそれらのカリキュラムに従順になることでそのようなものも失われることも指摘している14)。そして、大学からそれらが無くなってしまった場合、大学が学生の自立性を養う場としての機能が失われてしまうと危惧している15)。

注12) 武内清「学生文化の諸相」武内清編『キャンパスライフの今』玉川大学出版部、2003 年、p.169。
13) 武内清・浜島幸司・大島真夫「現代大学生の素顔」武内清編『大学生とキャンパスライフ』2005 年、上智大学出版、p.315。 14) 同上。15) 同上。

(新立 慶「大学生の「生徒化」論における批判的考察」(名古屋大学大学院教育発達科学研究科教育科学専攻『教育論叢』第53 号 2010 年)

ジェンダー論の説明

「ジェンダー意識」にについて説明する時、「料理のできる男子って、ちょっとイケてますよね」という発言(河野銀子「ジェンダーと学校教育」『子どもと学校』学文社 p.89)に、どう思うかを問うた。
「軟弱男子」という性別役割分業意識強い発言は少数意見。
「いいね」は、今の学生の普通の発言。
しかしこれで終わってはいけない。この発言は「料理は女性のもの」というジェンダー観を前提にしての、発言である。
「当たり前」「感心する必要がない」が、ジェンダーにとらわれない正当な発言である。

このような説明でいいのであろうか。ジェンダーの説明は難しい。

これって、メタ思考?
<メタとは、「超~」「高次~」「~の間の」「~の後ろの」「~を含む」などの意味を持つ英語の接頭辞。何らかの概念について、その概念自体を対象とする同種の概念、すなわち「 ○○についての○○」を「メタな○○」「メタ○○」という。>(http://e-words.jp/w/E383A1E382BF.html)

教育実習

今、4年生は教育実習の季節。小学校の場合、4週間の教育実習。学生にとっては、これまで大学で学んできたことを、実践の場で生かすチャンス。同時に自分の教職への適性を見極める場でもある。
敬愛の学生の多くは、「千葉卵プロジェクト」という学校ボランティアに、3年になると毎週1回参加しているので、教育現場には慣れているはずだが、補助のボランティアの立場と、自分が授業をする教育実習は全く違っているようで、持っている力を全て注ぐことになる。学生の実力と人間性が全て出る、また出さざるを得ない場である。
 指導教員として視察(指導?)に行くと、学生は、大学にいる時と全く違って(?)、自信をもっててきぱきと教え、子どもたちからも慕われている姿を見ることになる。
 私自身がが教えられることがたくさんある。声の出しかたや、板書の仕方や、児童への配慮の仕方など。また教師は男の子も女の子も「さん」づけで呼ぶ、マット運動には10種類近く種目がある、乗りのいい英語の教師(派遣?)に子どもたちは生き生きと反応する、千葉の田舎(?)にもりっぱなオープンの学校がある、など。現場の指導の先生に感謝。