庶民のささやかな楽しみ

私の小さい頃は、時代のせいか、家が貧しかったせいかわからないが、家に風呂なく、何日か1度近くの銭湯に行った記憶がある(夏は、タライで行水の日も多く、銭湯に行ける日は限られていたような気がする)。大相撲があるときは、銭湯のテレビを見ようと横綱の取り組みの時間に合わせて、銭湯に行った。なんと庶民的なつつましやかな生活であろう、と今は思う。
そう言いながら、今も同じようなつつましやかな生活をしている自分を発見する時がある。育ちは隠せない。
近所(車で5分のところ)に「スーパー銭湯」のようなものがあり(名前は、「極楽湯」http://www.gokurakuyu.ne.jp/gokurakuyu/tempo/chibainage/)、そこの無料券があるというので、娘に勧められ、お正月(3日)に夫婦で行った。何の期待もなかったが、行ってみたら、温泉ではないが、温泉場のようなたくさんの種類の湯場があり、結構楽しめた。
さらに湯上りの場は、温泉場よりさらに広く、食事処になっていて、お正月ということもあり、多くの家族連れで賑わっていた。その光景は、まさに宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の世界の賑わいであった。
 お金持ちや育ちのよい人たちは、今頃、スキー場や山の温泉場で、本物の温泉に浸かり、おいしい料理に舌鼓を打っていることであろう。それに比べ、庶民の楽しみは、なんとつつましやかなことか。
千葉県に住み、銭湯に浸かり、その庶民の一員であることを、実感したお正月であった。
 (一方、放射能に怯える福島の人を思えば、自分の家に住み、近場の銭湯に行ける生活は、ぜいたくで、幸福な生活かもしれない)

上記の文章に、Mさんより、貴重な体験談をお寄せいただいた。掲載させていただく。
うちでもその後、自宅に風呂場はできたが、それはまきで焚くお風呂であり、近所から廃材をもらってきては、まき割をして、それをくべた。

<「庶民のささやかな楽しみ」を読んで子どもの頃の風呂沸かしを思い出しました。
丸い木製の風呂桶は家の中にありましたが、釜は外付けでした。
まずは水汲みです。
10メートル位離れた所に「はねつるべ」式の井戸がありました。
これは桶を竹につけて細木の天秤の一方に下げ、他の一方に重しの石をつけ、楽に水を汲みあげられるようになっています。
バケツで何回ともなく往復、風呂桶をいっぱいにします。
次は風呂の焚きつけです。
新聞紙に火を付け、乾燥した杉っ葉を乗せます。その上に細木を置き、燃え盛ってきたら太い薪を入れます。
父親が帰るころ見計らって湯沸かし完了とします。
沸く間は近所の子ども達とビー玉やメンコで遊んでいます。
これが私の小学校低学年の頃の日課でした。
現代はスイッチひとつで「お湯張り」「おいだき」をしてくれます。
沸くと女性の声で「お風呂が沸きました」と知らせてくれます。
私の小中学校時代に、井戸は「はねつるべ」から「ポンプ」そして「水道」、風呂も「薪」から「石炭・石油・ガス」へと急激に変化していきました。
一種の懐古主義でしょうか、作業の手順を踏んで風呂を沸かした昔が懐かしく思われます。
科学や技術の進歩は便利さと引き換えに我々から、物を作ったり、作業したりする喜びを奪い、頭でっかちなへんてこな動物に変えつつあるのかもしれませんね。>

 

叔父(叔母)―甥、姪関係

 現代は親戚関係が段々薄れてきているのではないだろうか。親戚で集まるのは普段はなく、お正月かお盆か、誰かの結婚式か葬式や法事くらいになっている。それも、中心の人(父母など)が亡くなれば、お正月やお盆にきょうだいで集まることもなくなるし、結婚式や葬式も内輪で済まし、親戚で集まることも少なくなっている。
 昔は、親戚の行き来も多く、子どもは叔父や叔母からいろいろ世話をしてもらうことが多かった。自分の少年期を振り返って見ても、狭い自宅に大学受験前の伯父や叔母が田舎(佐渡)から出て来て居候していたし、それらの叔父叔母にに勉強を見てもらったり、海水浴に連れていってもらったり、日比谷へ映画を見に連れていってもらったりした。その時見た映画「沈黙の世界」「隠し砦の三悪人」「麗しのサブリナ」などは強烈な印象が残っている。その時の影響が、今の自分の考え方や行動に大きな影響のあることを感じる。
 そのお返しは次の世代へという気持ちがある。私はこのお正月は、私の実家の母のところに来た姪や甥の子どもに、お年玉や福袋をあげたり、一緒に遊んだりした。(逆に私が遊んでもらった感じもするが)子どもたちは昔ながらの他愛もないことに楽しみを見出し、昔と変わらない子どもの姿(ふざけたり、些細なことに笑いこけたり)も垣間見た。