「中教審答申」の解説を聞く

私学教育研究所の主催する研究会が、今話題の中教審答申(『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて―生涯を学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm)を取り上げ、主に委員のメンバーがその説明をするというので、それを昨年末に聞きに行った(「第54回公開研究会「中教審答申(24・8・28)をどのように受け止めるか―これからの具体的な課題は何か」2012年12月20日、私学会館)。
報告者が、浜名篤(関西国際大学学長)、川嶋太津夫(神戸大学教授)、山田礼子(同志社大学教授)、[以上中教審委員]、小笠原正明(北大名誉教授)という著名人のせいか、会場は200人近く一杯で、熱気に溢れていた。

私は、まだ中教審答申を詳しく読んでいないので、報告に感想を言う資格もないが、解説を聞いて、疑問に思ったのは以下の点である。

1 中教審答申というのは、誰が主体(答申の責任者)なのであろうか。中教審の委員がそれを、他人事のように語る場合や、文部科学省の役人が答申を文部科学省の方針(政策)のように説明する場合がよくあり、主体がわからなくなる。
2 昔、中教審委員だった清水義弘先生(当時東大教授、教育社会学会会長だったと思う)は、自分の主張と中教審の路線とが合わないという理由で、任期半ばで委員を辞任している。今、多くの教育社会学者が、中教審の委員になっているが、学問的主張と答申との関係はどのようになっているのであろうか。(もっとも、今回の答申では、そのような対立はなく、答申の内容に、教育社会学的な観点が多分に入っていることが感じられる。別の教職免許の改正に関する答申は、かなり現実離れしたことを言っているように思う。研究者の現実感覚が問われている)
3 日本の大学生は、授業には出席しても、授業外での学習時間が短く、それを制度的に(個人の心構えに頼るのではなくシステムとして)何とかしよう(=単位性の本来のあり方を実行しよう)というのが、今回の中教審答申の狙いの一つのようだ。そこでは、次のようなことは充分に考慮されているのかが疑問に感じた。つまり、今の大学生も、語学や自分の発表の時や試験の時は、授業外でよく勉強している。日本の高校も単位制だが、高校生は、大学受験の為、授業外の学習時間は大学生より長い。大学時代の学びは、授業以外の自主的活動や自発的学習(読書等)によるところが大きい。
4 中教審答申では、大学での「アクティブ・ラーニング」が盛んに奨励されているようである。その説明は、中教審答申では次のように、書かれている。
<生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を修得でき
るのである。>
妥当なことが書かれているように思う。しかし、それは、小中高で行われてきた「総合的な学習の時間」の活動の大学版という印象も受ける。それで、今は知識基盤社会と言われ、学問の基礎レベルが上がっている現在、大丈夫なのであろうか。知識の伝達・注入こそ今最初にすることではないかという疑問もおこる。
 
上記は、中教審答申をじっくり読むことはせず、報告(「解説」)だけ聞いて、印象だけを書いたものである。これから、中教審答申を読み、私の考えを訂正しよう。

本の書評、解説について

 考えてみると、私は、書評や本の解説を読むのが好きかもしれない。書評を読んで,その本を購入することもかなりある。でも、書評や解説を読んでから元の本を読むのでは、先入感ができて純粋にその本を読むことにはならないのかもしれない。
 一方、解説や書評の積極的な意味もある。
 社会科学の大層な本を翻訳で読もうとしても、難解で、途中でめげてしまうことが多い、それが解説に導かれてポイントを掴むことができれば、読み終えることができる。
 また、解説や書評(さらにいえば文藝批評)は、原本とは違った独自の価値を有しているとも言える。小林秀雄、江藤淳などの文藝批評は、小説とは違った独自の世界を描き、独自のジャンルを作り出している。
 江藤淳の『成熟と喪失―母の崩壊』という名著の中に、小島信夫の『抱擁家族』に関する叙述の部分がある。日本の夫婦関係の未熟さと滑稽さを考察した内容だが、その分析の巧みさに感心させられる。そして夫婦の関係について深く考えさせられる。それに導かれて原典(『抱擁家族』)を読むとあまり面白くない。(同じことを、文芸批評家が書いていたように思う)。このように、小説より、その批評の方が優れていることがある。
 渡部真氏が、森鴎外の「半日」についてブログで解説している(http://sociologyofyouthculture.blogspot.jp/)。夫婦関係の難しさを的確に指摘している。そこで鴎外の「半日」を読んでみたが、それほど、私は感心しなかった。(漱石は好きだけど、鴎外は好きではないという、私の趣向もあるのかもしれないが、少なくても私はそう感じた)。渡部氏の解説がそれだけ優れているのである(鴎外の小説が面白くないわけがない)