私語のない授業の実践

 大学の授業で私語をなくす方法は、簡単に見つかる。
 今週の敬愛の1年生の授業(教育原論Ⅱ、受講生60名)では、それを試してみて、成功した。
 先週、この授業では、授業中ケータイを見ることを禁止し、その分私語が多くて困ったので、今回はそのリベンジのつもりで臨んだ。その方法は、きわめて簡単である。

 3つの文章を配り(それぞれ1000~2000字程度)、「3つの文章から2つを選び、その内容の要約を書きなさい。さらにそれへのコメント(感想)もあれば書きなさい。(書き終わった人から提出して、帰ってよい)」というものである(「今日のテーマは、価値の教育(その2)であり、それに関連した内容の文章である」と説明した)。
 90分の授業の途中からその指示を出したので、残りの時間は1時間ほどあった。
 すると、おしゃべり(私語)はピッタリ止まり、皆静かに、必死に(?)文章を読み、その内容を要約したり、主要な部分を写したりしている。
 15分ほどで最初の一人が出し、それに4~5人提出が続いたが、その後は途絶え、30分以上かけ、文章を読み要約する作業を続けた学生が多かった。
 「最近の学生は読書をしない、新聞を読まない」と非難されるが、今回の学生の読みと要約を見る限りは、かなり的確に文章の真意を読み取っていることがわかる。

 読ませた文章は、次の3点である。
1 「高校生、親世代よりまじめー「勉強熱心」6割・「遅刻しない」7割,30年で大幅増」(朝日新聞 2012年11月21日、朝刊)
2 武内清「若者の規範意識」『子どもの規範意識を育てる』教育開発研究所、68 ~71 頁)
3 武内清「私語に見る規範意識」『子どもの規範意識を育てる』教育開発研究所、72 ~75 頁)

 講義するより、読ませた方が、学生の理解は進むのではないかと感じた。
 ただ、私語はないが、講義者の語りは少なく、大学の授業たるものこれでいいのか、という疑問は残った。学生は確かに、授業中に何かは学び、多少の「勉強した感」は持ったであろうが、何か腑に落ちなかったのではないだろうか。
(ソフィーには、文章が長すぎ、難解で、理解できない内容だったようだ。ボーとしている)

冬は都会へ

冬が近づくと日は短くなり、すぐ外は暗くなるし、寒くなり、あまり外に出ることが少なくなる。
それに対して、人を外に出そうとする力はいろいろ働いている。忘年会もその一つだし、街のイルミネーションもその一つだ。
先日、久しぶりに銀座の喫茶店で研究会を開き、銀座ならではの華やかな雰囲気を少し味わった。木々の点灯もきれいだ。研究会の後、食べた台湾料理も美味しかった。
冬だからといって田舎(千葉)に籠もらず、時に華やかな都会(東京)に出て、その雰囲気を味わうことも大事だ。

ストーブにかじり付く ソフィー(うちの犬の名前)は無理だけれどね。

ただ、千葉(田舎)にも、イルミネーションのきれいなところはあるらしい。
http://naminama.apfjapan.com/2011/11/post-759f.html
http://ameblo.jp/aoakuamusic/

大学の自由さ

浅野智彦氏(社会学)は以前の対談の中で、大学生の自由の大切さに関して、次のような興味ぶかいことを言っている。(対談「大学生の現在」(浅野智彦・武内清)季刊『家計経済研究』2011 summer p10)
<就活の長期化・早期化により大学の授業が成り立たなくなることの本当の問題は、「大学生が授業をさぼる権利を侵害していること」ではないでしょうか。大学とは「授業に出ていいし、さぼって別のことをしてもいい」場だと思います。その自由さにも重要な意味がある>

文部科学省が学生の授業への出席を厳しくチエックしようとするのは、この大学の自由さを奪うことになる。
一方、就職の決まった4年生が、就職先に見習い的に使われたり、アルバイトに精を出すのを見ると、学生時代の今しかできないことを忘れていはしないか、と思う。
働くことは大学卒業してからいくらでもできるし、嫌でもさせられる。卒論やゼミ論など自分の興味の赴くままに何かを探求すること、そして大学教員から学ぶことは、学生時代の今しかできないことなのに。失ってから、その価値のわかることがあまりに多い。

ピラニヤ

昨日(22日)の民放のテレビで、次のような話が流れていた。
台湾から生きたウナギを空輸するとき、その生簀の中に、ピラニヤを入れておくと、ウナギに緊張感が生まれ、生き生きするとのこと。
これは、昨日の「夫婦の日」に因んでの話題だったが、夫婦以外の関係や集団にも通用する原理だと感心した。
ただ、一方、今の世間には(政治の世界も含め)、ピラニヤが多すぎないかという気もする。