月の沙漠記念館

 御宿の「月の沙漠記念館」にはじめて入った。入場料は大人400円、高大生300円(65歳以上300円)加藤まさをの展示室には、彼の書いた挿絵や月の沙漠の歌詞の原稿などが飾ってあった。大正ロマンコ―ナーや月の沙漠記念像の模型や制作過程の写真などもあり、見応えはあった。御宿を訪れる人には、閲覧をお勧めする。

原子力のカルチュラル・スタディーズ

以前にここで紹介した吉見俊哉『夢の原子力』(ちくま新書、2012年)を読んで、教えられることは多々あった。
特にこれは、原子力の政治的、経済的側面と言うよりは、文化的な側面である。原子力のカルチュラル・スタディーズと言っていい分野である。
次のことは、私がぼんやりとしか理解していなかったことある。原子力の暗喩がこんなに満ち溢れているとは知らなかった。

<ビキニ=水着は、それをミニ付けた女性が周囲の男たちに与える「破壊的刺激」が「アトム=原爆」に喩えられ、やがてその実験が集中的に行われていた「ビキニ環礁」の海と「原爆級に刺激的」な水着の女性というイメージが合体して現在の名称が確立したのである>(200ページ)
<原水爆ソングは「冷戦オリエンタリズム」の匂いを帯びていなくもなかった。、、1957年にワンダー・ジャクソンが歌った「フジヤマ、ママ」はセクシャルな原爆イメージに、「日本に対する露骨なオリエンタリズムを倒錯的に結びつけた顕著な例である。この歌では、「フジヤマ・ママ」が原子爆弾そのものに喩えられ、、、被爆した側に対する徹底的な鈍感さ、、、、驚くことに50年代の日本は熱狂的に歓迎し、、、雪村いずみが日本語版をカバーし、>(201-204ページ)
<日本版『ゴジラ』が表象したものは,紛れもなく原水爆の恐怖そのものであった。1954年という誕生の年から考えても、映画での山根博士による説明からしても、ゴジラは何よりもビキニ沖で被爆した第5福竜丸の隠喩であり、さらに原子爆弾そのものの隠喩でもあった>(216ページ)
<手塚治虫の鉄腕アトムは原子力エネルギーで作動するロボットであり、体内に原子炉(10万馬力)を内蔵している。しかもアトムの妹は「ウラン」、弟は「コバルト」と名づけられている、、、、ドラえもんも、機動戦士ガンダムも原子炉を内蔵したロボットであった。、、戦後日本のアニメにおけるロボットイメージは、その原点で原子力と不可分な関係にあった。>(243ページ)
<「風の谷のナウシカ」における玉蟲もまた、核を生み出した文明(巨神兵)への徹底的な問い直しを含んでいる。>(256ページ)
<大友克洋『AKIRA』において、外部の何物かによって落とされた核爆弾によってではなく、身体的に病んだ少年の超能力によって覚醒する原爆並みの力のために、近未来都市が破壊されていく様子を描くことのなったのである.,,,このように、70年代以降、原子力的な破壊のイメージが文化的な自己意識に深く内面化されていったのは、戦後日本のメインストリームの大衆意識が、原水爆を高度成長以降の日本には無縁の、その外側にしか存在しないはずのものとして遠ざけてきたことと見事なまでに逆立していた>(261~2ページ)

身近なところに歴史と貴重なものが

 千葉の外房の御宿にはここ数年よくっているが、そこに歴史や貴重なものがあることに全く気がつかなかった。
 斉藤弥四郎『童謡 月の沙漠と御宿町』(本の泉社、2012年8月)を読んで、御宿町の歴史と絵本作家「加藤まさを」のことを知った。
 御宿町は観光客が1年間で100万を超えたことがあり(1969年、105万4千人)、「新宿、原宿、御宿」という賑わいだった時があるという。(今はその10分の1くらいな感じがする)
 「加藤まさを」は、童謡「月の沙漠」の作詞家であり、一世を風靡した絵本画家(抒情画家)であり、「月の沙漠記念館」にその原画が多く展示されていることを、この本から知った。

<ネットからの転載>
 加藤まさをは、大正中期より昭和前期にかけて、一世を風靡したみずみずしい抒情画の数々を発表し、一時代を築くとともに、大正12年に発表した「月の沙漠」は、御宿海岸がその舞台となりました。
 このことを永遠に記念するため、昭和44年7月6日美しい御宿の砂丘に、「月の沙漠記念像」が建てられ、この時以来、月の沙漠の発祥地御宿の名は全国に知られるようになりました。
 以来、月の沙漠記念像は、多くの人々に愛され、月の沙漠の御宿として、町発展の基盤となり、大正ロマンをほうふつさせる文化遺産として、また観光御宿の知名度の向上と飛躍の原動力となりました。
 月の沙漠は、童謡の名曲として、子供から大人まで、いつの時代にも愛され、歌いつがれてきました。平成元年、NHKが行った「ふるさとの歌100選」で千葉県で第1位、全国でも第5位に選ばれ、今もなお、人々の心を魅了しています。加藤まさをは、同年代に活躍した竹久夢二(たけひさゆめじ)、蕗谷虹児(ふきやこうじ)、高畠華宵(たかばたけかしょう)らと並ぶ抒情画家であり、抒情詩人でありますが、抒情画のほかに、詩あり、童謡あり、小説・歌謡曲などその創作は多彩を極め、数多くの作品を残しています。
(http://www.town.onjuku.chiba.jp/sangyoukankouka/shisetsu/tsukinosabaku_kinenkan/tsukinosabaku_kinenkan_02.html)

 最近の御宿の様子に関しては、下記を参照のこと。
  http://www.himawari.com/blog/blog/13

ウーラントの「渡し場にて」

心に残る詩(歌)があることを、M氏が知らせてくれた。もともとドイツ語の詩のようだが、英語訳で読んでも、日本語訳で読んでも、心打たれるものがある。この気持ち若い人にはわからないかもしれない。高齢者で、親しい友人たちを失った人に、共感を呼んでいるようだ。この詩のことは、昔 新聞紙上でも話題になったらしい。

The Crossing
Many years ago   I crossed this same stream. There shines the castle in the sunset, There runs the weir, as always.
And in this boat with me There were two companions:  One, a friend, like a father to me, The other young and full of hope.
The first led a quiet life,   And thus did he also pass away;   The other stormed ahead of us all,   And fell in storm and battle.
So if I of past days, Happier days, dare to think,  I always miss my dear friends,
Whom death has ripped from me.
But that which binds all friendship  Is the finding of kindred spirit, Those hours were of the spirit,  To those spirits am I yet bound.
Take then, Ferryman, take the toll,   Which I gladly pay threefold: Two, which cross over with me    Are spirit in nature.
(English translation by Lawrence Snyder)

いく年前か この川を 一度わたったことがある いまも堰には水どよみ 入り日に城は影を引く。この小舟にあのときは わたしと二人のつれがいた お父さんにも似た友と 希望に燃えた若いのと一人は静かに働いて 人に知られず世を去った 。もう一人はいさましく 戦いの庭で散華した。 しあわせだったそのむかし  偲べば死の手に奪われた だいじなともの亡いあとの さびしい思いが胸にしむ。 だが友を結ぶのは たましいどうしのふれ合いだ。 あのとき結んだたましいの きづながなんで解けようぞ。 渡し賃だよ船頭さん 三人分を取ってくれ わたしと一緒に二人の みたまも川を超えたのだ
(「渡し場で」ウーランド 猪間驥一訳)