藤原新也 写真展 「沖の島」

絵画や写真を見るセンスが私にはない。それは、絵や写真を見る見方について、基礎的なことをこれまでに学んでこなかったせいである。基礎的な教育は何事にも必要である。
最近世界文化遺産登録が決まった「沖の島」についての写真展を藤原新也が、今日(19日)から8月1日まで、日本橋・高島屋で開催している。その招待券が何枚も手元にあり、それを見に行こうかどうか迷っている。
「学期末でいろいろ忙しいな」「私が写真展を見てもそのよさがわからないのではないか」「千葉から東京は遠いな」など、行くのをおし止める気持ちも強い。もう一度、藤原新也の新聞記事を読んで考えよう。(朝日新聞 7月18日夕刊より一部転載)

孤高にして神秘 「沖ノ島 神宿る海の正倉院」展 撮影・藤原新也
通常はなんびとも入ることのできない禁足地。展覧会場では連続する6枚の写真をつなげて幅12メートルの巨大パノラマで紹介する 。知られざる「神の島」の姿を捉えてきた藤原さんに、見どころを聞いた。
 ■自然の共生と秩序
 みそぎをして上陸し、石段を登り、息を切らせながら峠にある第三の鳥居をくぐり、わずか10メートルほど下ったところで、不意に空気が変わります。潮騒が途絶え、風がやむ。それまで聞こえなかった小鳥のさえずりがこだましはじめる。盆地に降り、お社に続く踏み石を見たときに、コケで真っ青になっていて驚かされます。人が入っていない証拠です。
 人間の肺の底には赤子時代に吸った微量の空気が残っていると言われますが、この盆地状の聖地には古代の残気が残っていると感じた。1回目の沖ノ島行きではその残気を撮ったと思う。
 3回目の撮影となる今年5月、限られた神官しか入ることができない場所での撮影を許されました。
 古代から放置された場所だからジャングルみたいになって、鎌でも持って入らなければならないのかと思っていたが、そこには予測だにしない世界が広がっていました。
 あたかも造園師が手を入れたかのようなバランスと秩序がそこに生まれていたからです。人間が一切関知しないということは、逆に自然の共生がおのずと秩序を作り出すのだということをこの目で見た思いがある。この神聖な場所の姿を他者に伝えるには自分の個性というものを殺し、出来るだけ記録に徹しなければならないと思い、そのような撮り方をしました。今回の会場ではその禁足の森とも言うべき世界を12メートルのパノラマで展開します。誰も見ることの出来ないその森の前に立っていただく、ということです。(以下略)