薩摩の両雄「西郷と大久保」から学ぶ

科学の時代に育ち、非合理的なものはほとんど信じない自分であるが、偶然やありえない遭遇に驚くことがある。運命の糸に導かれてというほど大げさなものではないが、その偶然や遭遇を楽しむのはいいことであろう。

現在特任で勤務している敬愛大学は、その創始者長戸路正政が明治38年にある講演会において西郷隆盛の「敬天愛人」思想に出会い、この「敬天愛人」を建学の精神として学園を創設した。
その西郷隆盛の「敬天愛人」や、西郷の思想や人となりについて、学園の角田叡氏の講演を学生と一緒に聞き、また敬愛大学の創設の本などを読み、歴史に無知な私も西郷隆盛についていろいろ知りたくなった。西郷は人間的にも魅力的な人物だったようである。
そのような中、偶然昨日(8日)、同窓生と佐倉の「国立歴史民俗博物館」に行き、大久保利通の特別展を見て、その幕末の大久保利通が、西郷隆盛とは薩摩で幼な馴染みで、後に政治方針が違い決裂して戦う運命にあったことを知り、その遭遇に少し驚き、この二人のことを知りたくなった。
 インターネットで、大久保利通で検索してみると、さすがに歴史的に有名な人なので、いろいろ出てくる。その中には、<薩摩の両雄「西郷と大久保」>(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/okubo.htm)というものもあり、興味深い考察もある。(以下、一部転載)このあたりから歴史を学んでいこう。

< 西郷はその人生の中で、しばしば上役や身分の高い人物に対して、「自分が正しいと思うことは、死をも恐れずに思い切って発言する」というような大胆な行動に出ています。これは西郷の人生における一つの行動パターンとなっています。(中略)  
 西郷がこのような行動パターンを取る性格に形成されていったのは、生まれついての正義感などもあるでしょうが、「お由羅騒動」で受けた影響が大きくあると思われます。
「正しいものが処罰され、悪がはびこる」(少なくとも西郷はそう信じていました) 赤山の筋を通した見事な切腹を聞き、血染めの肌着を授けられた西郷は、公に対する憤りというものを強く感じ、権力に対する反抗精神を心の中に植え付けられたことが、西郷が死をも恐れず、思い切ったことを大胆に発言する性格に形成された一つの原因になっているように思われます。
 一方、大久保ですが、彼が「お由羅騒動」で感じ得たことは、西郷とは大きく違っていたと思われます。  大久保はこの騒動において、「権力というものが、いかに強大で、かつ恐ろしいもの」であるかという、権力の本質を悟り、感じたと思われます。
 また、それと同時に権力への憧れというものも同時に感じたものと思われるのです。
「例え正義がこちら側にあったとしても、少数の徒党では組織の権力には絶対にかなわない。事を成し遂げるには、必ず強大な権力を背景としたものが必要となってくる」
 父の遠島や自分の免職謹慎処分で塗炭の苦しみを味わった大久保は、このような思いを抱いたのではないでしょうか。  
実はこのことはまったく西郷とは正反対の感じ方です。   西郷は「権力に対する反抗精神」を感じ、大久保は「権力への憧れ、権力欲」を感じたということは、二人のその後の生き方を理解する上で、非常に重要なポイントとなってきます。>