老いについて(続)

老いについて、3つを追加しておきたい。

昨日は、あるプロジェクとで、青年社会学の浅野智彦さん(東京学芸大)や青年心理学の溝上慎一さん(京都大学)らとご一緒する機会があった。今一番旬の研究者と一緒だとそれだけで若返る。これから一緒に大学生に関するデータを分析し、今年の11月5日(月)に、東京で、大学生に関する公開のシンポジウムを開くことになり、楽しみ。

藤原新也は、老いの中の子どもらしさに関して、次のように書いている。

「石牟礼道子さんは、深刻な話をしながら、不意にふっと抜けたように笑う。それは「椿の記の海」のあの遠い童女の笑い。 私は机を挟んでその笑いに誘われ、意味もなく笑い合っている。 そうすると私は少年の自分を、ふと思い出した。その時、老いてなおその中で眠る子供こそが、生き続ける逞しさであり、支えであるということがはっきりとわかった」(shinya talk,2.26より引用)

水沼文平さん(中央教育研究所)より、次のようなコメントをいただいた。

武内先生の「歳を取るということ」には今年前期高齢者の仲間入りをした私も考え込んでしまいました。
「耄碌」の意味を辞典で調べてみますと、広辞苑には「耄碌」とは“おいぼれること”、漢字源には「耄」とは“年老いた人”“老いぼれる”、「碌」とは“ぽろぽろ割れてできた小石”とあります。
「ぽろぽろと割れてできた小石」とは言い得て妙ですね。
2011年の日本人の平均寿命は女性が86歳、男性が80歳、世界の平均寿命は、男性が66歳、女性が71歳とありますから日本は世界有数の長寿国のようです。
私がこどもの頃「人生50年」という言葉をよく聞きました。
実際私は母方の祖父の死に際に会っただけで残りの祖父母は私が生まれる前に亡くなりました。
さて、多くの老人が呆けてしまうと、我儘になったり、奇妙な行動を取ったり、徘徊したりと、とかく問題を起こしがちです。
面倒をみる家族の苦労も並大抵ではありません。
仏教では「生老病死」を四苦と言っていますが、私はこれに「耄」を加え「生老耄病死」としたいと思います。
「耄」は人として生まれた以上は避けられないものであり、自分は年老いて必ず呆けて人に迷惑をかけるという認識を持つ必要があります。
そこで呆け予備軍の世代に提案したいことは、今のうちから遺言を認めておくということです。
呆けたら本来の自分を失うことですから、私の遺言は「ぼけたら面倒などみないで施設に送りこむなり、道端に捨てるなりしてください」という内容にしたいと思っています
世迷言になりますが、国歌にある「さざれ石」はもともと小さな石の意味ですが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指すそうです。
“ぽろぽろ割れてできた小石”になってしまい捨てられた老人たちが何かの触媒を用いて大きな岩に変化し、第三の人生を生きたり、世直し運動を展開したりするのはいかがでしょうか。