発生と機能―リメディアルと初年次教育の対立

 ものごとのあり方を考える時、2つの方法がある。一つはその発生の起源から考える方法である。こう一つは、現在の実態や機能から考える方法である。
 前者は歴史的な視点で、そのものごとの原点やエッセンスや初発の目的がどこにあるかを探り、初心に帰る方法である。後者は、最初の意図はどうあれ、現実の中で果たしている機能に注目して、そのあり方を考える方法である。歴史的に考えるか、社会学的に考えるかの対立と言ってもよい。
 
 高等教育の分野で、リメディアルと初年次教育の対立があるという話を聞いた。前者は大学の単位として認めず、後者は大学の単位に認める。共に、大学の教育を受ける準備になる教育なのに、何で単位を与えたり与えなかったり対立するのかわからなかった。
 これも、発生と機能のどちらに注目するかに関連するのかもしれないと思った。
 つまり、リメディアル教育は、もともとアメリカなどで、大学の授業を聞いても理解できない学生(たとえば理系の基礎ができていない学生や、留学生で英語が分からない学生など)の為の、補習教育が発生の起源なので、大学の単位には認められない。(そういえば、アメリカでは、留学生の入学を仮に認めてTOEICの点が一定以上になれば、大学の授業を受講する資格ができる制度があったような気がする。)
 このアメリカの制度が起源で、それを日本の大学に取り入れたので、大学の単位にはならないと考えられたのであろう(歴史的視点)。
 ところが、日本では初年次教育でも、「読み,書き、算」のような基礎的なことを教えているので、その内容は、リメディアル教育の内容とあまり変わらない(アメリカのような語学の問題はない)。実際の機能という点から考えれば、リメディアルも初年次教育も変わらない(社会学的視点)。
 このように発生起源にこだわるか(歴史的視点)、機能にこだわる(社会学的視点)で、判断が分かれるのではないか。

この発生と機能の違いは、作田啓一や井上俊が、青年文化の機能についての説明で書いていたことのように記憶する。青年が「遊び」(遊戯)の分野に離脱するのは、発生の契機は気晴らしや逃避だったかもしれないが、そこで失敗を恐れず、自分の力の限界に挑むうちに、自立性を獲得する(機能)。