生物学から学ぶ

私は最初大学は理系に入り、授業は数学、物理、化学、生物といった理系科目ばかりであった。そこに出てくるのは数式とものと動植物ばかりで、人間が全然出てこない。それで嫌になり、人間を扱う教育学部を、大学3年次の時の進学先に選んだ。
数学も物理も化学も面白いと思わなかったが、生物学も動物や植物の遺伝や生態を調べて何が面白いのだろうと思った。
でも、下記の生物学者の書いた新聞記事を読むと、生物学は人間の基底部分を扱っていて、教育学や社会学に役立つ部分もあるかもしれないと、今は思う。(他の理系科目の内容も、教育学や社会学と共通部分がかなりあると、今は思う)
生物は、何億年もメスだけで事足りたというのは興味深い。オスは刺身の具(つま)のようなものかもしれない。生物はもともとメスだけ、あるいは両性具有で、途中から(メスから)オスが分かれたのかもしれない。それも、少し違った血を入れた方が面白いというメスの気まぐれから。
もしそれが正しいなら、社会学のジェンダー論は再考を迫られるかもしれない。

(福岡伸一の動的平衡9「哀れ、男という『現象』」朝日新聞 2016年1月28日より転載)

 ボーボワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったが、生物学的には「ヒトは男に生まれるのではない、男になるのだ」と言う方が正しい。
 生命の基本形は女性である。そもそも38億年にわたる生命進化のうち、最初の30億年は女だけでこと足りた。男は必要なかった。誰の手も借りず女は女を産めた。その縦糸だけで生命は立派に紡がれてきた。でも女は欲張りだった。自分のものは自分のもの。他人の美しさもほしい。かくして縦糸と縦糸をつなぐ横糸が生み出された。遺伝子の運び屋としての“男”。単なる使いっ走りでよいので、女をつくりかえて男にした。要らないものを取り、ちょいちょいと手を加えた急造品。たとえば男性の機微な場所にある筋(すじ)(俗に蟻〈あり〉の門〈と〉渡りなどと呼ばれる)は、その時の縫い跡である。
 コンピューターをカスタマイズしすぎるとフリーズしたり、故障したりしやすくなる。それと同様、基本仕様を逸脱したもの=男、は壊れやすい。威張ってはいるが実は脆(もろ)い。病気になりやすいし、ストレスにも弱い。寿命も短い。その証拠に、人口統計を見ると、男性に比べ圧倒的に女性が多い死因は「老衰」だけである。つまり大半の男は天寿を全うする前に息絶える。哀れなり。敬愛する多田富雄はこう言っていた。女は存在、男は現象。(生物学者)
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