江藤淳について

 今日(18日)の朝日新聞朝刊に、評論家の江藤淳への手紙がいくつか見つかったという記事が載っていた(下記参照)。
 私は、若い頃から江藤淳のファンのひとりなので是非見てみたいという気持ちが強い。しかし、一般には江藤淳の名前を知らない人も多いだろうし、現在、江藤淳に関心をもつ人も少ないのではないか。(私は一度だけ会い、江藤淳とだけ書かれた名刺をもらったことがある)
 昔江藤淳を個人的に知る慶応大学出身の偉い先生に、「江藤淳のファンだ」と言ったら、「いろいろ問題を起こす人ですよ」ということを言われ、その言葉が印象に残っている(その証拠のようなことが、今回の新聞記事に載っている)。
 芸術家や文学者はその芸術や文学が卓越していれば、人間性や人付き合いに問題があろうと、それはたいしたことではない(それは、ゴーギャンをモデルにしたモームの「月と6ペンス」の主題だったのではないかと思う。江藤淳は、4歳半の時に母を亡くし、人や社会とのつきあいの方法に苦労したのであろう)。
若い時、江藤淳の『成熟と喪失―母の崩壊』『アメリカと私』を読んだ時の衝撃は忘れられない(上野千鶴子も「成熟と喪失」の読後感で同様のことを書いている)。
人が生きるということは、日本的甘えを切り捨てて、真向勝負することということを教えられたように思う。しかもその底流には漱石のようにあたたかい心が流れている。
(城山三郎は、『アメリカと私』の礼状で、「実に堂々と肩を並べ、一人の職業人として、そして紛れもない一人の日本人として生き、語り、働いておられる感じです」と江藤淳の生き方を称賛している)。

(以下、朝日新聞 12月18日朝刊より転載)
 戦後を代表する文芸評論家・江藤淳が作家などから受け取った手紙とはがきが、300通以上見つかりました。内容も筆跡もさまざま。差出人と江藤との人間模様が浮かび上がります。
 戦後を代表する文芸評論家江藤淳(1932~99)が、批評家小林秀雄や政治思想史家丸山真男らから受け取った書簡が見つかった。礼状から抗議文までさまざまで、意外な交流関係もあり、文壇の緊張感や保守派の論客・江藤の素顔が伝わってくる。18日発売の「新潮45」誌で一部が公開される。
 書簡は300通以上ある。多くの中から江藤が選別して残したものらしい。作家埴谷雄高(はにやゆたか)からのはがき(62年3月)は、献本への礼から始まるが、〈文壇的にならないように〉と釘を刺して終わる。江藤の評伝を執筆中の平山周吉氏は「江藤は埴谷から影響を受けたが、後年の激しい論争の伏線といえる不穏な手紙」とみる。
 作家北杜夫のはがき(67年11月)は4枚続き。贈られた「江藤淳著作集」を読めない事情を、〈ウツ状態から脱しかけ〉〈どうもまだハガキ一枚まともに書けない〉と弁解しきり。埴谷を弁護する一文を挟み、締めの一文は〈死にたくないと思います〉。
 65年3月の音楽評論家吉田秀和の手紙は抗議文だ。江藤は朝日新聞夕刊の文芸時評で、加藤周一の小説を「国際連合的感覚」と批判した。吉田は〈ショックでした〉と書き、加藤の普遍的な概念による表現の努力が「最大公約数的な考え方」だと誤解されるのでは、と擁護している。
 仏文学者河盛好蔵からの一通(83年3月)は江藤のミスを厳しく指摘する。小林秀雄追悼の論考で「出典不詳」と江藤が書いた文は、上田敏の訳詩集「海潮音」にある〈マラルメの有名な言葉〉だと。温厚で知られた河盛だが、専門領域では手加減無しだ。
 一方、ウイスキーを贈られた作家立原正秋は「江藤さん、これはすこし律義すぎるな」と書いている(65~71年ごろ)。
 平山氏は「ライバル意識を隠さない文面には驚く。一方、献本や時候のあいさつを欠かさない江藤の昔気質な面もうかがえる」という。献本に対する小林や丸山からの礼状や、プロレタリア詩人中野重治や劇作家寺山修司、作家山崎豊子らの書簡もあり交流の広さを物語る。今後の研究の貴重な資料になりそうだ。(吉村千彰)

 掲載誌『新潮45、1月号』を購入して、「江藤淳への手紙」を読んでみると、当時の文学者、思想家の大御所からの手紙が満載で、目がくらくらするほどである。日本の思想界、文学界のトップには、このような親交が存在したとだと、びっくりする。そのような中で、江藤淳の自死を防げなかったのかと、残念な気がした(12月26日)