楽譜と演奏との関係について考える

私は、文学も音楽も、芸術分野に全く疎いので、これは見当外れな考えと思うが、ふと思いついたことがあるので、書き留めておきたい。

ピアノ教師(本人もピアニスト)が生徒にピアノのレッスンをしている動画を見て思ったことである。楽譜と演奏の関係は、どのようなものなのかと思った。ピアノ教師は、楽譜を見ながら、ピアノの弾き方を熱心に生徒に教えている。その解釈は、楽譜に書かれているものなのか、それともそのピアノ教師のオリジナルなのか知りたくなった。演奏は楽譜通りに弾くのが基本かもしれないが、ピアニストによっても解釈は違って来るのではないか(オーケストラの場合は指揮者による演奏の違いがある)。

それを小説と楽譜との違いで考えてみた。4つくらいのことがある。①小説は作家が何度も推敲して書き換える場合があるが、楽譜の場合はどうなのであろうか。楽譜は、一度完成したら書き換えはないのであろうか。源氏物語は底本がないといわれるが、昔の楽譜の場合、どれがオリジナルかわからないということはないのであろうか。②小説の場合、それを解説、批評する文藝批評家がいる。楽譜の場合、その批評家は演奏者になるのではないか(もちろん音楽評論家もいるが、主に演奏を批評している)。③ 小説はつまらないのに、その文藝批評は優れているという場合がある(小島信夫の『抱擁家族』に対する江藤淳の『成熟と喪失』の中の文芸批評など)。これと同じように、楽譜はつまらないのに、その演奏は素晴らしいということがあるのであろうか。音楽の場合それはないのであろか(もちろん編曲というのもあるが)。 ④ ピアノの楽譜を見てみると、その残存音を考慮して作曲されているようにも感じる(和音など)。それと同じことが、小説や文章にもいえるのではないかと感じた。優れた文章は、前に書かれた文章の余韻を意識しながら、書かれるのでないかと思った。(そんな高度なことは、到底自分ではできないが)。文章(小説)と音楽にこのような共通性があるとすれば、優れた文筆家は音楽にも通じていることになる。