昔の卒業生からの質問ー記憶を辿る

30年くらい前の卒業生とメールのやり取りをしている中に、次のような昔のゼミでのやり取りに関して質問された。それは、大分昔のことであり、私は全く覚えていない。そのことを通して、大学の教員が何気なく言ったことが、何年も学生の心の中に残ることがあるのだ、ということを知った。小中高校でも同じことかもしれない。教師冥利につきるともいえるし、教員の責任は重いともいえる。

<大学三年のゼミのとき、私が「言葉は映像を超える」と言ったときのことを思い出しました。例えば「きれいな女」とか「泣きじゃくる少年」とか「気難しい老人」とか言葉で言ったとき、人はさまざまな映像を想像をすることができる。言葉の持つ自由さは、映像が「きれいな女」とか「泣きじゃくる少年」の姿を固定化させてしまうのに比べ、ずっと奥行きがある、と言ったのです。そしたら先生が「言葉が映像より優れているわけではない」とおっしゃり、何かの例を出したことを思い出しました。それがはっと目を見張るような指摘だったので、私はすごく驚いたのを覚えています。残念なことにその例を忘れてしまいました。先生は覚えていますか?覚えていたら教えて下さい。>

それに対する私の返事。

<その場面は、まったく覚えていませんが、そのことで私が何か言ったとしたら、次のようなことではないでしょうか。言葉と映像との関係は、社会学者の副田義也氏が。『遊びの社会学』(日本工業新聞社、昭和52年)の中で、興味深いことをを言っています。その内容は次のようなものです。

小説(言葉)を読んだ時の想像力の方向と、マンガや映画(映像)を見た時の想像力の方向は逆で、それぞれ性質の違うものです。どちらが優れているというものではありません。前者は、言葉による心理描写を読んで読者が情景(映像)を想像するものであるのに対して、後者は、絵や映像を見てその登場人物の心理に想像力を働かせるものです。まったく、想像力を働かせる方向が逆になっています。それぞれリテラシーが必要で、それがないと理解できませんし、面白さがわかりません。マンガを読むリテラシーのない人が、マンガは低俗だというのは、本人が理解できないだけです。マンガの価値が低いわけではありません。(「少年マンガにおける想像力の問題」、同書、51ページ参照)