日本教育社会学会大会2日目

今日の学会大会も、いい発表が多く、多くのことを学んだ。
課題研究Ⅱでは、「子どもの貧困」に教師はどう向き合えるのか、というテーマが取り上げられ、いい議論がされていた。報告者の3人の話もよかったが、討論者の倉石一郎氏(京都大学)の的確なコメントに感心させられた。この部会から、次のようなことを考えさせられた。

・「子どもの貧困」は、根源的な問題。根源的な問題に対しては、真正面から向き合うことはかえって難しい。そこで少しずらし、「社会的排除」など他次元から迫るという方法もある。
・「貧困」や「生活保護」家庭など、何かのカテゴリーを付すことは、カテゴリー化の暴力に晒すことになる。それを乗り越える方法を考えなくてはならない。
・「子どもの個性に応じる教育」が今強調されているが、それは社会的なものを欠落させる危険性をはらんでいる(⇔個性的ということはある社会状況との係わりが必ずあるので、社会的を欠落させることにはならない)
・社会的ということは、コミュニケーション能力を高め、周囲に同調し、現状を肯定することではない。批判的にものごとを考えることである。
・教育には、「泣き言を言わない」「頑張って乗り越えなさい」という主体性志向がある。それは現状の社会の状況を批判的に考えることなく、個人の力で解決しなさいという言説になる。
・学校に導入されたソーシャル・ワーカーに子どもの家庭的な問題や社会的な問題を押し付け、教師は教科の専門家であり、それに関与しないという姿勢は問題である。教師の指導の福祉的側面を検討する必要がある。

学会発表には、報告者と聴衆がいる。同時にいくつもの発表会場があるので(一般の部会では10部会、課題研究では3部会が同時に開催されている)、聴衆の方はどの発表を聞こうかと選択に迷い、報告者にとっては自分の発表にどれほどの人が聞きに来てくれるのかということが気になる。
発表時間は20分であり、その中にこの1年(あるいはそれ以上)研究したことを詰め込むので発表の密度は濃い。その分、聴衆も集中力を高め聴き入る。質疑応答の時間は5分の真剣勝負。(以下は感じたこと。)
① 散漫な発表、未完の発表、手抜きの発表、個人的なこだわりが過ぎる発表は、聞き手の集中力が高ければすぐわかる。学会の限られた貴重な時間をそのような発表を聞くことで無駄にしたくないという気持ちを皆持っている。したがってそのような発表には人が集まらなかったり、今年は仕方がないが、来年は絶対聞くまいと思う。
② 発表者は、苦労して発表の準備をしてその日に臨んだ甲斐は皆感じている。なんといってもその場の主役であり、達成感がある。発表が終わってから聴衆に囲まれ、新たな交流も生まれる。
③ それに対して、発表もせず、質問もしなかった聴衆(今回の私)は、蚊帳の外に置かれ、疎外感を味わう。(個人的に新たな知識や洞察を得て、自分の研究に大いに役立ったという自己満足があるにしても)。来年は、もう少し積極的な参加をしようと思う。

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