敵視の相互依存について

漠然と感じていることを、明確な言葉や見方で指摘されることがある。それは、人との会話であったり、ブログであったり、新聞記事であったり、本であったりする。それは知らず知らずのうちに囚われている思考様式に反省を促すものである。

週刊誌やネットのツイッターで、誰かを悪者にして叩くのは、人々の繋がりを強めストレス解消になるように思うが、それは、クラスなどで、特定のひとりの子をからかい、皆でつながりを強め学校生活のストレスを解消する「いじめ」と同一の心理で、やってはいけないことのように思う。悪者に仕立てあげられる人は、有名人であったり権力者で少し間違いを起こした人がなることが多く、つい罪悪感がなく同調してしまうが、「いじめ」には変わりない。――そのようなことを、下記の新聞記事を読んで思った(一部転載)

「我々が暮らす今の社会では、個人を識別するデータに基づいた監視と管理が想定以上の速度で進んでいる」「現在の情報監視は、国家による直接的な情報取得よりも、利便性や経済的利得のために人々が進んで自らの個人情報を提供することで成立している」「社会的な流動性が高まり監視社会化が進むと、個人が選択を行う際に社会的規範よりも他者からの承認が優先されるというのが監視社会論の要諦だ。人々は他者からの承認目的で共通の「敵」を見つけ、「みずからの敵視の妥当性を他者の賛意に求め、それを相互に確認し続ける解釈の循環を作り出す」「「監視カメラ」は「ツイッター炎上」や「メディアの偏向報道」、「フィルターバブル(ネットで自分が見たい情報しか表示されなくなる現象)」など、様々なものに置き換え可能だ。「現在の「超監視社会」においては、自らの承認のために一時的な仲間をつくり、敵を攻撃することでしか不安定な自己の安定をはかることができない。イデオロギーや規範よりも、敵視の相互依存が勝る社会では、手近な安心感を相互に得ようとする自己撞着(どうちゃく)的な勢力が最も力を持つ。」(津田大介 「超監視社会」朝日新聞5月30日,朝刊) \