思いだしたことの書き留め

教養学部(理科二類)の授業で受講した化学実験で、印象に残っているものがある。それは、一つの混合液を与えられ、その中にどのような要素が含まれているのかを、実験で探るというものであった。
その混合液を分解して、それを構成するA,B,C,Dの各要素に分けるという方法を取るののかと思ったら、そうではなく(そのようなことは、高度な装置がないと簡単にできないのであろう)、一つの液体(x)をそれに加え、色が変化するかどうかを見ると3いうものであった(変化すればAという要素が含まれていて、変化がなければAは含まれていない、と判定する)。次に別の液体yを加え、色が変化するかどうかを見る(変化すればBという要素が含まれていて、変化がなければBは含まれていない、と判定する)。同様の手続きを繰り返す。
 言ってみれば、多様なリトマス試験紙のようなもので、至って簡単な原理である。
 これは、自然科学の方法であるが、我々が日常の人の行為を理解するときにも、この方法を使うのではないのか。社会学者の作田啓一が、このことを言っていたように記憶する(『価値の社会学』、岩波書店)。
 
 なぜ、今、このことが思い浮かんだのかは、定かではないが、忘れないうちに書き留めておこう。(今の朝ドラの認知症の母親が、同じようなことをしていたー 敬愛の先生が「まだらボケ」という言葉を連発していた。他人ごとではない)