季節の花(その5)

今日(5月3日)は稲毛海浜公園にある千葉市の「花の美術館」(https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/3182/)に行った(家から車で20分弱)。連休中で有料駐車場は混んでいたが、少し離れた空いている無料駐車場に車を停め、20分ほど海岸沿いを歩いた。海岸には、かなりの人が出ていたが、あいにく風が強く、テントも飛ばされそうで浜遊びを楽しむという感じではなかった。

「花の美術館」は、温室の建物で中にいろいろな花が生育しているが、その中庭や外も様々な花が楽しめる。外は今の季節は、バラやポピーが綺麗。中は、ジキタリス、ストック、アジサイ、ランなどがアレンジされ咲いていた。中庭には、上品なシャクヤクと春のコスモスのような花=アグロステンマが花時で見とれてしまった。(この2つは、今度うちの庭にも植えようと思った)

このように季節の花に魅かれ、つい時間があるとそれを見に行きたくなるが、草木や花に魅かれるのは歳のせいかもしれない。若い時は、草木や花に興味はなかったように思う。また、歳をとったからといって誰でも草木や花に皆惹かれるわけでなく、惹かれるのは精神的に悩み、何かの埋め合わせのようなものを必要としているのかもしれないとも思う。周囲の人(例えば卓球仲間)に聞いても、バラ園を見に行ったり、「花の美術館」に行ったりという話をほとんど聞かない。

江藤淳は『成熟と喪失』という名著の中で小島信夫 の『抱擁家族』に言及し「外部の自然は、非日常的な、きわめて特権的な瞬間しか登場人物の意識にのぼらない。(それは妻に不貞を告白されて)、日常生活の次元からものの次元につきおとされた俊介の眼に映じた暁方の庭である」と書いている。このように、日常性の危うさを感じる人が、草木や花といった自然に眼が行くのかもしれない。(逆に別の箇所で)江藤淳は「むしろ作者は描くべき自然を奪われ、人間に集中することを余儀なくされている」とも述べている。(この指摘に従えば)自然に関心がない人は、人工的なものに浸食され、自然を奪われ、人間(関係の悩み等)に集中することを余儀なくされているとも考えられる。