人との会うことの「暴力性」

今でも見る一番怖い夢は、授業の準備、話す内容の準備ができていないのに授業の時間が来てしまい、困惑する夢である。途中で目が覚めると、ほっとする。人前で話すのが向いていないのかもしれない。

今、コロナ自粛で、大学の授業が遠隔授業になり、教壇に立つこともなくなり、その点ではとても楽になった。自分にとって、教壇に立つことがこれほど苦痛のことだったのかと自覚する日々である。とりわけ多人数の講義では、いろいろな学生がいて、どんな話をしても退屈する学生はいて、私語はあるし、それを宥め、90分の授業を無事終えるのに多くのエネルギーを使う(うまく行った時の達成感はあるのだが)。少人数のゼミは少し楽だが、それはそれで別の神経を使う。ゼミメンバーが皆仲よくしているのか、コンパでもやった方がいいのかなど。

精神科医の斎藤環氏が、人に「会うことは暴力」と言っている記事(朝日新聞6月14日、デジタル版)を読んだ。人に会ったり、人前で話すことは「暴力」で、かなり無理をしているのだということである。自然の状態は、そんなに人に会ったり、人前で話したりせず、一人(あるいはせいぜい身近な家族と)好きなことをして、人と連絡が必要な時は、メールで伝えればいい。「引きこもりは」は異常なのではなく正常で、無理して人に会ったり、人前で話したりすることの方が異常なことなのかもしれない。外で働く旦那より、終わりのない家事、育児に忙殺される専業主義の方がどれだけ大変なことなのかと、ジェンダー論では言われるが、人に会うことの暴力の少ない専業主婦の方が、外で神経をすり減らし人と会う旦那より楽でまた人の自然状態に近いのかもしれない。こんなことを感じるコロナ自粛の日々である。

 <(前略)むしろ非生産的で、不要不急の、あまり意味のないことをすることで、私たち自身が本来持っていた、時間の感覚を取り戻しましょうと。私はそういったメッセージを、ウェブサービス「note」で公開し、反響の大きさに驚きました。(中略) 緊急事態宣言解除後に再び元の世界に戻すべきなのか、という議論があります。在宅ワークをしてみたら、できるじゃないかと。無理に満員電車に揺られて通勤し、行き先の職場で疲弊して、ハラスメントにあってまで働くことはないと。そんな声が上がる一方で、「やはり会わなければダメだ」という声もある。議論は今も続いていて、なかなか糸口が見えない。 なぜかと言えば「人に会う」ということは、ある種の「暴力」だからなのだと思います。どんなにやさしい人同士、気を使いあっていたとしても、相手の境界を犯す行為なので、その意味では、会うことは暴力です。それでもなぜ、人と人が会うのかと言えば、会った方が話が早いから。(中略)この暴力の存在を、私はコロナ禍の中であらためて自覚しました。私が日々している会議、授業、診察。それらもまた、暴力なのだなと。私自身、そこに入る前に緊張したり、気が重くなったりする。でも、終わってしまうと、やってよかったという気持ちになる。(中略)自分が外の世界で経験してきたことの暴力性に、外出自粛下で距離を置いたことで、気付いてしまった。それに気付くほどに、暴力のない世界に没入したくなる。そういった気持ちは非常によくわかる気がします。(中略)  「会うことは暴力だ、だからダメだ」とも言えない。「すべては暴力なのだから、我慢するべきだ」とも言えない。暴力に対する耐性は人それぞれ違います。予想を超えた規模で、実は自分自身は暴力に耐えられないんだ、と気付いた人たちもいたわけです。そういう人たちが在宅に切り替えれば、欠勤もなくなり、効率もアップする。そういうことが実際に起こっている。)(中略) 大勢がひきこもったことで、ひきこもりの人に共感しやすい状態が生まれました。>(斎藤環、コロナで誰もが気付いた「会うことは暴力」(6月14日)精神科専門医・筑波大学教授)