ネット社会との付き合い方

ネット社会において、ネットとどう付き合うかは難しくなっている。
藤原新也はCATWALKという会員制のクローズドサイトを運営し、自分の主張を自由に書いている。ただ、そのサイトはクローズであるとは言え、誰でもアンケートに答えわずかな月会費を納めれば会員になれるので、閉鎖性は中途半端である。氏はその中途半端さを、楽しんでいるところがある。
会員に藤原シンパのジャーナリストも多いようで、氏がトークで書いたことが、すぐ新聞やテレビで取り上げられることも多い。
氏のネット社会についての思いが、数年前に入試問題に出たこともあると卒業生が教えてくれた。7年前のものだが、転載しておく。

次の文章を読んで、問いに答えよ。(立命館大学、2011年 国語)

 2010年代のコミュニケーションの姿を考える手がかりに、この10年間のコミュニケーションはどうだったのか、思い巡らせてみた。
 昨年の4月、東京・六本木のミッドタウンそばにある公園で裸になって逮捕された「SMAP」のメンバー、Kさんの事件は、それを考える上でのヒントになるように思う。あの出来事は今のどこにでもいる若い子のコミュニケーションを巡る風景とそっくりじゃないか、と思ったからだ。
 Kさんはもともと感じのいい人だったのだと思う。そのいい人が、アイドルとなる過程で「いい人キャラクター」を記号として演じ続けることになる。その「いい人への過剰適応」の重みに彼は押しつぶされたのではないか。
 渋谷に越してきて12年になるが、今の若者にはおしなべてこのKさん型の「いい子キャラへの過剰適応」が見られる。
 まず会話に「間」がない。相手の言葉を咀嚼する前にすぐ同調の言葉を発する。周りの雰囲気を壊さないよう、グループからはじき出されないように注意深く会話し、いい子を演じることが身についている。
 母と子の関係も同じで、口やかましい母の前でずっと「いい子」で通してきた子がある日突然荒れはじめたり引きこもったり、拒食・過食に陥ったりする。そんなある子はセンター街あたりで欠落した愛情の代替行為として援助交際に走ったりもするわけだが、ドロップアウトした子もまじめな子も「いい子過剰適応」という意味で元の根っこは同じだ。
 だが、Kさん型の「いい人への過剰適応」は、若い人固有の世界ではなく、大人世界の問題でもある。タレントの人気が「好感度」によって査定されるという、あの不可思議な評価基準。いまやタレントのみならず一般人、企業やマスメディア、政治までもが、その好感度という尺度で査定される。
 その目に見えない風圧にさらされ、いい人を演じて波風の立たない気持ちの良い人間関係を作ることに個々人が腐心する。そこには、相手の言葉や行為を正面から受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思い、考えを投げ返すという、本当の意味のコミュニケーションが希薄だ。
 こういった空気読みの風景は、2001年の9.11同時多発テロ事件以降の一般的傾向のように思う。アメリカはあの事件をきっかけに絶対悪、絶対善で世界を2分し、その「踏み絵」を世界政治の前に突きつけた。いまだにその「空気読み」で世界政治が動いている。
 そんな時代の空気を作り出したのはネットの影響も大きい。
 ネットほど便利なものはないが、負の部分は、それが思わぬ監視機構として機能してしまうということだろう。そういう意味で1999年の「東芝クレーマー事件」は監視社会の端緒となる出来事だった。
 製品の修理に関する使用者の苦情に対して東芝側のとった乱雑な応対がすべてネットに録音公開され、不買運動にまで発展したあの事件だ。企業はネットの「恐ろしさ」を痛感し、以降、企業と姿の見えない世間との相互監視が大変強くなった。
 大人世界がそういった相互監視の風圧に曝される一方、「学校裏サイト」に見られるように、ケータイやネット環境は監視装置として子供の個人情報や発言をも白日の下に曝し、子供たちは空気を読んで行動せざるを得なくなった。
 そのように相互監視システムがはりめぐらされて、同調圧力の風圧が強まる中、今後のコミュニケーションはどうなるか。
 ネット社会が臨界に達したときに、ゆり戻しが来るのではないかと期待をしている。そしてその兆候がかすかに見えている面もある。
 例えばアメリカの人気歌手マドンナが、人と直接に対面するライブやイベントに活動をシフトしたという報が最近あったが、それはネットのダウンロードやユーチューブの閲覧でCDが圧倒的に売れなくなったからだ。皮肉にもネットの臨界現象が身体性を復活させている、という前向きな見方も出来る。日本でも人気グループAKB48が全国でマラソン握手会というような汗臭いイベントをやって、そのライブ感が受けている。今後十年それに似た身体性の復活は方々で起きるのではないか。
 ネットの体制内での変化も見逃せない。いま急速に広まっている「ツイッター」は140字以内のつぶやきをライブで交信するネットシステムだが、ブログがタイムラグのある「文章」ならツイッターはライブで発している「声」や「呼吸」に近い。そういう意味で、これまでのネットメディアにないある種の身体性を感じる。「声」がネズミ算式に一気に広まることを秘めたシステムであることを考えるとき、その声や空気の集積が時代の気分や価値観を作り出す可能性は十分にありうる。
 だが僕個人は、このツイッターに可能性を感じながら警戒もしている。
 それは逆に考えると究極の相互監視システムでもあるからだ。あののどかなブログでさえ自分の行動や居場所や思考が不特定多数の人々の目に曝されるわけだ。ツイッターはさらに「タイム・スライス」で刻々と自分の行動が明らかになる。自分の身体をCTスキャンで輪切りにして白日の下に曝すようなものだ。
 ツイッターが新しいメディアにもかかわらずその使用者の中央年齢値が高く、子供や若年層が意外と参入していないのは、「学校裏サイト」などで彼らが死活問題とも言える辛酸をなめているせいかも知れない。
 おじさんおばさん世代が嬉々としてツイッターにはまっている光景はネット相互監視のダメージの経験のない世代の平和な光景にも見える。
(藤原新也氏への四ノ原恒憲記者によるインタビュー「ネットが世界を縛る」<『朝日新聞』2010年1月3日付>より。なお一部を改めた)