「深い学び」について

文部科学省の「主体的対話的で、深い学び」のうち、「深い学び」に関していろいろ議論されているが、次のようなことは含まれているのだろうかと、内田樹氏の、最近のブログを読んで思った。それは、具体的な事柄から、その背後にある歴史的な事象や普遍的なパターンを見出す、という学びである。

内田氏は、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』の具体的な一場面から、旧世界の貴族やランティエ(年金生活者)たちの「ノブレス・オブリージュ」のモラルを蹴散らして登場してきた20世紀初頭の新興勢力の貨幣と軍事力による支配への移行を読み取っている。このような読みこそ「深い学び」の中核ではないのか。氏は下記のように、書いている。

<勤め先がなく、扶養家族がなく、小金を持っている。そういう人たちが19世紀末まで、ヨーロッパにおける知のフロンティアを担ってきた。この「暇人」階層こそ、ヨーロッパ近代における芸術的な、あるいは学術的なイノベーションの温床だった。そういう諸君が文学作品を書いたり、その登場人物であったり、あるいはその読者であったり、批評家であったりした。彼らが、ヨーロッパにおける「何の役にも立たない」ような各種の知的ムーブメントをほとんど独占的に牽引していた。そういう社会的な階層が長期にわたって存在していたのです。それが第一次世界大戦の勃発と同時に消滅します。インフレで貨幣価値が一気に下落したからです。/カズオ・イシグロに『日の名残り』という話があります。これは一九三〇年代の話。大戦間期に、イギリスの貴族がドイツやフランスの要人たちとひそかに連携して、戦時賠償で苦しんでいる敗戦国ドイツを救おうとする。そういう古いタイプの政治家たちが集まって密談しているところに、アメリカからの来客である上院議員が登場します。彼は集まった上品な政治家外交官たちに向かって、冷たくこう言い放ちます。「ここにおられる皆さんは、まことに申し訳ないが、ナイーブな夢想家にすぎない。(・・・)上品で、正直で、善意に満ちている。だが、しょせんはアマチュアにすぎない。」「諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはおわかりか?高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。ただ、ヨーロッパにいる皆さんがそれを知らないだけの話。・・・)ヨーロッパがいま必要としているものは専門家なのです。」(カズオ・イシグロ、『日の名残り』、土屋政雄訳、早川書房、2001年、147-8頁) これからは軍事と金のリアルポリティクスの時代である。もう、あなたたちのような貴族同士の信義とか友情とか、そういうことで外交ができる時代は終わった。アマチュアは政治の世界から出ていきなさい。上院議員はそう一喝します。 僕は『日の名残り』というのは、執事とメイドの控えめな恋の話だと思って気楽な気分で読んでいたのですが、実はなかなか深い政治史的転換が物語に副旋律を奏でていたのです。>(「内田樹の研究室」「危機の危機」http://blog.tatsuru.com/2022/03/28_0812.html )