表現者の心意気

恋愛の歌より失恋の歌に人は惹かれる。何か成功した自慢話より逆境に耐えてそれを乗り越えた話に感銘を受ける。

辛いことが続くと、人の心は折れてしまうかもしれないが、それは人の心を打つことを書ける絶好の経験と思うことができれば、その辛さに耐えられるのかもしれない。少なくても表現者(作家やジャーナリスト等)にとっては。

もうすぐ雑誌に掲載される藤原新也との対談で,安田純平氏が,「監禁されながら、 『よし、この現実をとことん検証して調べて、書いてやる』と思い続け、その気持ちがあったからこそ理性を保ち、生き延びてこれた」という意味の発言をしているとのこと。
 
 表現者だけでなく、普通の我々も、この心意気を学びたい。

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ひだまりの思い出  水沼文平

仙台は最高気温が15°最低気温が5°と大分寒くなってきました。エアコンで暖かく
なった部屋で本を読み音楽を聞いているととても幸せな気持ちになってきます。そし
て60年以上も前のこどもの頃の寒かった家の中を思い出したりします。

真冬の朝、目を覚ますと寒さで鼻のあたりが痛くなっていました。当時は暖房と言っ
ても居間に掘り炬燵か石油ストーブがあったくらいで子どもの部屋には何もありませ
んでした。日本の家屋は南方から伝来した稲作と一緒に北上したもので、木と土と紙
で構成された高床式の建物です。隙間だらけの家ですから風や雪さえも吹き込んでき
ました。外に出る時は「どんぶく」という綿入れ胴着を着て、姉たちのお下がりの
セーターを着ていた覚えもあります。そして下駄に足袋という足ごしらえでした。

ところで、寒かった小学生時代ですが暖かい場所もありました。それは林に囲まれた
空地の「ひだまり」です。空地の枯れ草は薬草のようなにおいがしました。そして、
そのひだまりは家庭や学校から解放された自由な空間でした。友だちと団子になって
おしゃべりや尻取り遊びをし、家から持ってきた固い干し柿を食べたりしたもので
す。

自転車で通う近くの森林公園の狭い空地にベンチが置いてあり、そこがひだまりにな
ります。団子になって遊んだ友人を誘っても来そうにもないので、一人でひなたぼっ
こをしようと思っています。冷たい風を遮る木々に囲まれたひだまりは電気によるエ
アコンにはない温もりを感じる特別の場所です。

現代の日本は、自然は観賞するもので共生するものではなくなっています。今の子ど
も達に私の昔の寒い経験をさせるつもりはありませんが、せめてひだまり(sunny
spot)という自然暖房の中で遊んで欲しいなと思っています。(水沼文平)

我が家の柿を啄んでいるヒヨドリの写真を添付します。

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話し方の大切さを知る

学校や大学では書かれたものが重要で(価値があり)、話されたことは重視されない。教科書やテキストに書かれた内容は正しいことで、教師はそれを読み上げたり説明したりする。教師の話したことを生徒がノートに書くことも重視される。
大学教員の業績は活字になった論文や著作が評価され、その人の授業や話し方が評価されるわけではない。
 そのような「書く文化」中心の学校文化の中に育つと、教師は書かれたものを中心に授業を展開するようになる。私が大学で受けた授業も、テキストや黒板の文字が中心で、先生の話し方が上手だなと感心するようなものはなかったし、そのようなことが重要とは思わなかった。
 私のこれまでの大学での教員人生を振り返ると、とにかく書かれた優れた資料を探して、それの説明に終始してきたように思う。話し方を工夫したこともない。内容さえすぐれていれば、学生はそれに感銘を受けると考えてきた。
 
 昨日(24日)、敬愛大学の教職交流会で、向山行雄・国際学部教授の講演を卒業生や学生と一緒に聞く機会があったが、その話し方があまりに上手で、皆それに聞き入り、時間の経つのも忘れるほどであり、話し方がいかに大切かを、思い知らされた。
向山教授は教壇の一箇所に立っているわけではなく、自然な感じで教室を回り、手ぶり身振りも入れて話し、皆引き込まれて話を聞いた。具体的なエピソードもふんだんに入れた話で、そこから一般的な教訓や理論を引き出していた。間の取り方が絶妙であった。
向山教授は、小学校の教師の経験もあり、学校の管理職が長く、講演も多く、また話し方はいろいろ工夫されてきたのであろう。落語を聞く機会もあると言っていた。

私ももう少し早く話し方の大切さを知り、自分の授業での工夫もすべきだったとだったと後悔した。
これから、小中高の教職のみならず、大学の教師にも話し方の教育が必要ではないかと思った。
「教師は声楽家のボーイストレーニングを受ける。教壇での教師の自然な動き、そしてパホーマンスは学生をリラックスさせる。教師は演劇家の演技指導を受けるべきであろう」とかって、大学の私語対策として書いたことがあるが(IDE,NO323、1991)、大学教師は、さらに落語家やお笑い芸人の指導も受けながら、話し方を学ぶのが必須ではないかと思った。

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観音像に癒される

仏像や観音像に関心があるわけではないが、先日内房をドライブした折、遠くに観音像が見えたので、近くまで行って、見学した。
名称は東京湾観音。改修中であったので中に入ることはできなかったが、上の方は改修が終わり、上半身を見ることができた。
穏やかな顔の観音像で、見ていると心が癒されると感じた。これも歳のせいかもしれない。

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追記 水沼文平さんより下記のコメントをいただいた。
 <内房の大観音像を拝見しました。観音様とは名前を唱えるだけで苦しみから救い出してくれるありがたい仏さまです。
印象に残っているのは台湾の巨大な観音像です。海の女神「媽祖(まそ)」と結びつき台湾人の厚い信仰対象になっています。  東北では会津若松市の会津慈母大観音像、仙台市の中山大観音像、釜石市の釜石大観音像が有名です。>

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高齢者への評価

社会学の価値判断の基準に属性本位と業績本位という言葉がある。その人のありよう(属性)とその人のできること(業績)のどちらを重視するかの二者択一である。
ひとの出身階層や家柄は属性で、獲得した学歴は業績である。しかし学歴も属性になり、実力が業績になる。近代の社会では、未来に仕事のできる人、つまり業績主義の観点から人が評価される。
高齢者(老人)は、どのように評価されるのであろうか。近代社会では高齢者も、過去の仕事や地位からではなく、現在そしてこれから何ができるのかで評価される。すると高齢者のほとんど無価値ということになるような気がする。

しかし、上野千鶴子は次のように書いている。
「このひとが過去に何をしてきたかは問題ではない。その人の過去の生き方や姿勢がその人のふるまいに滲んでいると思う」
「その油の抜けたさりげない佇まいに好感を持った。そのひとの経てきた安易ではない時間がいまのこのひとを創ってきたのかと、目の前のそのひとのおだやかな風貌にあらためて見入った」
「何をするかでなく、だれであるのか。それも肩書や地位では測れないそのひとのありよう、ふるまい,口のきき方や身のこなし、つまるところそのひとの佇まいが、そのひとのいちばん大切な情報だと思うようになった」
「ひとがつき合うのは、そのひとの過去ではなく、現在とそしてそのひとの仕事ではなくその人の人柄とである」
「高齢者は過去の抜け殻ではない。それどころか、誰も経験したことない年齢という日々に新しい現実を探索している最中だ」

(上野千鶴子 「佇まい」『ひとりの午後に』より抜粋、明治大学、2015年度政経学部の入試で出題されている)
上野千鶴子 『ひとりの午後に』

 高齢者は過去の生き方や姿勢の滲みでた現在の人格や佇まいという「属性」によって、また、今やこれからをどのように生きるかという「業績」によって評価されるべきということなのであろうか。

上記に関しては、I氏より下記のようなコメントも寄せられている。
<業績主義(メリトクラシー)自体が高齢者の評価には馴染まないでしょう。趣味のサークルで何をやった、とかは業績たり得ないでしょうし(そもそも、成果を得たくてやっているわけでもないでしょう)。「 高齢者は過去の生き方や姿勢の滲みでた現在の人格や佇まいという「属性」によって~評価されるべき」だとすれば、それはそれで残酷なことで、人格・佇まい(・カリスマ・オーラ)といった測定可能、超主観的な尺度で評価されれば、プラスの評価になる人間などごくごく少数なので。
エッセイストに転じた上野千鶴子は、『ひとりの午後に』の構成を見る限り、幸田文(および類似の女流文筆家)の影響を受けている or それらに似せようとしている感じがありますが、「佇まい」に代表されるやまと言葉の茫漠とした世界に逃げ込んでいる感がありますね。(今まで、論理バリバリの世界にいた反動?)。社会学者にしては文学がわかる、と故江藤淳に言わせ,『上野千鶴子が文学を社会学する』などの著書のある人ですから、それなりに文学に造詣もおありなのかと(思いますが)。あまりに社会学的な文学論。

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