大学教員の地位低下

大学教員の社会的地位は下がっているように思う。それは給与面だけでなく世間の大学教員を見る目(社会的評価)についても言えると思う。大学教員は、自分の狭い領域に閉じこもるオタクで、世の中のことには無知な人種と思われているのではないか。それで今大学教員に期待されることも様変わりしつつある。

少し前までは、大学と専門学校は同じ高等教育でも違うもので、大学の専門学校化は、大学の本質(真髄)を失うもので問題であると議論されていたが、最近はそのような議論は聞かない。この大学の学部が専門学校のようにいかに就職に役立つのかという広報ばかりが目につく、

大学の知識も実務的なもの実践的なものが重視されている。実務経験者の割合が一定程度いないと学部や大学院の設置認可が下りなかったり(教職大学院等)、授業料免許の援助の対象大学から外されたりする。今教育界はアクティブ・ラーニングというマジックワードが飛び交い、実践に役立たない知識は貶められている。

大学の入試は、もととも大学で学ぶ能力があるかどうかの判定の為に行われたものなので、大学教員が作成し採点するのが当然と考えられていたが、今は大学入試センタ―試験の主導権は、大学教員から高校教師や文部科学省の役人や民間に移管されようとしている(荒井克弘「高大接続改革」中央教育研究所研究報告No94 36p, www.chu-ken.jp/pdf/kanko94.pdfsannsyou

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現代学生考

教育関係者向けに週2回発行されている「内外教育」(2019年10月8日)に、下記のような短い文章を書いた(タイトル 「現代学生考」)。

これまでいくつかの大学で学生に接してきた経験から、大学と大学生に関して考えてみたい。自分の場合は、受験勉強を終え大学に入学して受けて授業はさっぱり心に響いてこなかった。それで大学の授業を諦め、大学外に知の源泉を求めた(読書等)。

 1970年代後半に大学教師になり学生に接してみると、大学の講義への出席率は3割程度と低く、大学生活の中心は友人関係とサークル活動であった(スキー、テニス、マージャンは定番)。学生たちは厳しかった受験競争の疲れを4年間のモラトリアムの期間に取り、企業戦士として社会に出ていった。企業も受験学力は評価したが、大学教育には何の期待もしていなかった。

 1990年代以降になると、大学の授業改革が進み、「大学の学校化、学生の生徒化」が進行して、学生たちは素直になり、授業への出席率は急速に高まった。学生たちは大学の授業から何かを学ぼうと考えたのであろう。情報化社会になり情報量が膨大となり学問が高度化しているので、どの分野でも基礎的な部分は大学で学ぶ必要が生じた。それで知識は大学の授業から得るもので、大学外から学ぶという意識は薄れていった(読書の習慣がなくなった)。

 『キャンパスの生態誌』(潮木守一、中公新書1986)によると、大学には、「自動車学校型」「知的コミューン」「予言共同体」、の3つがあるという。現代の大学をみていると、この3つが薄められた形で存在していることを感じる。資格試験や採用試験に向けての知識技術の習得(自動車学校型)、ゼミや演習の必修化(知的コミューン)、主体的関与や行動を推奨するアクティブ・ラーニング(予言共同体)。さらに、幼い頃からのデジタル環境の影響(スマホとゲームの世界への耽溺)と社会的貧困からくるアルバイト生活が加わる。

これらをバランスよく配置し、大学生活を送ることが今の大学生に求められている。大学生活満足度は年々上昇していることから、それは成功しているのであろう。ただ、学生の批判精神が薄れていることが気がかりである。

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災害への備え

関東に住む人間にとっても、3.11の東北の地震の時のことは記憶に残っている。揺れは大きかったし、東北ほどでないにしても大きな被害があり、交通機関はマヒした。それで、今でも地震に対する備えをしている人は多いであろう。

それに対して、台風や大雨、強風に関しては、ここのところ関東地方で被害がなかったので、関東人は油断していたと思う。それがこの前の台風15号の被害が千葉県で甚大で、今回の台風19号に関しては、その備えの必要がマスコミの報道はじめとして強調され、各家の対策やスーパーや交通機関の対策も早くから取られるようになっている。昨日(11日)、千葉の店では水や窓に貼るテープも売り切れのところも多かった。夕方にスーパーやパン屋を通りかかるとパンが全て売り切れていた。この備えが功を奏する、あるいは台風の被害がなければいいが。もし台風の被害がない場合も、それはこれからの自然災害の備えや予行演習としての意味をもつであろう。

このようなのんきなことを言っていられるのは、まだ千葉も雨風が強くないせいかもしれない。先ほど(12日午前8時10分ごろ)うち(千葉市稲毛区)でも停電があったが、20分ほどで回復した。これからもっと長い停電や断水を覚悟しておいた方がいいかもしれない。

<追記1>現在12日21時15分。台風19号は伊豆半島に上陸。千葉は少し風が強い程度でこの前の台風15号の時に比べ雨風はそれほどひどくでない。地震はあったが、停電や断水はない。関東各地や東海や中部地方に大雨特別警報が出ているが、千葉には出ていない。台風の被害は、場所によって違うことがわかる。15号の時は風が強く、千葉で木や電柱が倒れ、屋根瓦が壊れ停電や断水が長く続き道路が寸断された。今回は大雨で、千葉ではない内陸部で河が氾濫し洪水の恐れがある。千葉県民は前回の教訓から今回はかなりの備えをしていたが、他の地区ではそれほど備えをしていなかったのではないか。備えの大切さを感じる。被害が大きくないことを願う。

<追記2>知人のU氏より下記のメールをいただいている。「それにしても同時多発の水害の多さには驚いています。今回の同時多発の河川の氾濫が示唆する日本の国土の治山治水の新たな問題の深刻さ・・・という課題に関心が広がってきました。災害への準備に加えて、高度成長型の日本列島改造から、人口減少段階に入った日本の国土の再編と再構築というテーマが浮かんでいます。」。次のように言う人もいる。「15号による風害や今回の水害の様相を見ると、これからは過去の事例では参考にならないような巨大台風や豪雨が日本のみならず世界各国を襲う可能性を今回の19号は知らしめているように思う。すでに2年前に台風の規模や強度の変化は節目を迎えていると思われ、これからはこれまでの日本の災害や風土に根ざした家屋の作り、あるいは台風来襲時の防護の方法も根本的に洗い直す必要があるのだろう。一例を上げれば過去から延々と日本の風景を形作って来た瓦屋根である。歴史を育んできたその美しい生活の工芸というものが房総を襲った15号台風によって機能しなくなった時代が来たように思う。おそらくあの瓦屋根が飛んだ地域では、早晩その屋根の風景は変わるだろう。」

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教員志望の減少について

現在教員志望の学生が減り、教員採用試験の倍率も下がり、教員の質の低下が懸念されているという。朝日新聞10月7日の朝刊に編集委員の氏岡真弓氏が詳細な記事を書いている。(https://digital.asahi.com/articles/DA3S14207818.html?iref=pc_ss_date) この記事の内容に納得しつつ、別の側面も考える。

教員の労働環境が劣悪で、給与月額の4%上乗せ一律施行の「教育職員人材確保法」(人確法)以上の長時間労働(「過労ラインを超える教員が小学校で約3割、中学校で約6割いる」)が常態化し、教員という職業が魅力を失っている時期に、それでも教員になりたいという強い熱意のある人が教員になるといことであれば、それは逆境を強みに変えるという意味で、いいのかもしれないと思う。(もちろん、優秀な人材が教員以外を志望したり、採用倍率が低く楽をしても安定した給与が得られる職業として安易に教員を選ぶ輩が増えることは困ることで、それは少なくなるようにしなければならないことであるが。)

「これからの時代、教員はマニュアル通りではなく、自分で工夫して教えることが求められる。20年度からの新しい学習指導要領や大学入学共通テストで重視されるのは、自ら問いを立てて議論し、社会について批判的に考える力をつけることだ。」と氏岡氏が書いている。これまでの教員採用試験の型にはまった知識のテストに高得点を取る学生ではなく、「自ら問いを立てて議論し、社会に対して批判的に考える力」をもった学生が、教員を志望してくれるであれば、日本の教育の未来は開ける。その為には、批判性を重視する「教育社会学」はもっと教職科目の中で尊重されてもいいのだが、実践に役立ちそうな科目ばかり重視されている。

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どんでん返し

最近ドラマや新聞小説を読んでいて、ストーリーの作りがうまいなと感じることがある。話の流れから、次はこうなるなと視聴者や読み手に予感させながら、どんでん返しをして、びっくりさせる。その鮮やかな描写に感心する。

朝のテレビドラマ「スカーレット」でも、女の子が借金取りが入っている風呂を熱くして追い返す場面が次に来ると予想させて、実は逆に借金取りに諭される展開になり驚いた(10月7日)。朝日新聞朝刊の小説「カード師」(中村文則・作)でも、賭けポーカーで素人が玄人に騙される場面を巧みに予想させ、最後にどんでん返しの起こるストーリーは見事である。(下記に一部転載)論文や授業でもこのようなどんでん返しが起こせれば、楽しくなるのに。

<プロがまた弱気な雰囲気で賭け金を吊り上げる。既にゲームを降りた客達(たち)は皆プロが彼を騙してると知っていたし、見え見えともプロも知っていた。自営業者にはわからないと。僕も含め客達は黙ったまま、自営業者が破滅するのを見つめていた。人が破滅する瞬間には快楽がある。 プロが金を吊り上げ、自営業者も乗っていく。自営業者は蒼白になり、首からも汗が流れていた。素人が陥る、引けない感覚に覆われていく。ここで引けばこれまでに賭けた分が全て取られる。素人は思い切って引くことができない。プロが被害者の振りをし、破れかぶれの演技で全額を賭けた。 場に緊張が走る。乗れば自営業者は全額失う。彼はすぐ手持ちの金をチップに替え、負けを取り返そうとするだろう。再び負け、また手持ちの金を出すだろう。脳裏に負けた額が増えていく――刻まれ続け、人生までも振り返り、あの時勝負を避けたから人生はぱっとせず、でも賭博での自分は違うと強気に勝負し続けるだろう。人生での敗北まで、賭博で取り返そうとするだろう。「一発逆転」もちらつくだろう。自分の存在そのものを放り出す無意識下の快楽に、彼自身が気づいているかどうか。 周囲の者達は沈黙しながら、しかし彼を誘う空気をわざと作り続ける。自営業者はその賭けに乗った。もう乗るしかない。自分を越えた押す力と惹き込まれる力があり、抗えない。 互いの手札が開示される。プロはキングのスリーカード。だが自営業者はエースのスリーカードだった。 プロの目が驚きで見開く。自営業者はいつの間にか、完全な無表情になっていた。熟練のプロプレイヤーのように。>(朝日新聞 10月7日朝刊)

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