読書―村上春樹『騎士団長殺し』を読む

家にいると、本が読めるようで読めない。
テレビのニュースを見なくてはならない、新聞を読まなくてはならない、犬の散歩に行かなくてはならない、買い物に行かなくてはならない、庭の雑草を抜かなくてはならない、テニスや卓球の練習に行かなくてはならない等々、次々から次へやらなくてはならないことが思い浮かび、読書は後回しになる。

お蔭で、村上春樹『騎士団長殺し』(1部507頁、2部541頁)を読むのに1週間近くかかった(知り合いの読書家のJ.K.さんは1日で読んだことであろう)
先ほどやっと読み終った。今は山登りをしてやっと下山して、疲れてボ~としている感じである。それほど高い山ではないが、最初はゆっくり上り、高い平地を少し歩き、そこから急な坂を下り、平地に降りて、この山登りは何だったんだろうと思っている感じである。

物語は肖像画家の主人公の観点から書かれている。主人公と各登場人物との関係がお互いの気遣いからか秘密が多く(話していいことと話していけないことを常に意識している)、人との会話は親しい人とでもとても緊迫したもので、読む方も緊張を強いられる(確か漱石の『明暗』の登場人物の会話も、このように緊迫したものであったように思う)。
主人公(男)は、結局のところ、同性よりは異性(妹、13歳のモデルの少女、妻)に惹かれ心を許している。そして同性とは距離を取っている。主人公の大学時代からの親友の雨田氏には、住むところが困っていた時、雨田氏の父(雨田具彦)の別荘を貸してもらい、別れた妻との関係の修復を手助けしてもらいながらも、雨田具彦の『騎士団長殺し』の絵の存在を最後まで明かしていない。親友なのだからもう少し心を許し、何でも話して相談すればいいのにと思ってしまう。またいろいろなことを相談し、命まで助けられた免色(メンシキ)氏にも、その絵の存在を最後まで秘密にしている。
また、登場人物の親が子を思う心情の描き方に不満を感じた。免色氏は自分の子どもかもしれない13歳の女の子のことが気掛かりで、その為にその近くの豪邸まで購入し見守るのだが、その子が失踪した時、心配する様子も慌てる様子もなく日々を過ごしている.親の子を思う心情はこのようなものではないだろうと思ってしまった。
この小説は恋愛小説としても読める。村上春樹の恋愛観は、「男にとって女性はいかに大切なものなのか」ということは一貫していて、それは男同士の友情や親子関係をはるかにしのぐものである。ただそれは近代の恋愛結婚のイデオロギーに則つているように思う。
この世とあの世の境(超自然)の話は、よく出てくるが、その評価は私にはわからない。
結局のところ、私の力量では、この大作に明晰な感想は述べることはできない。それは識者に譲ろう.

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ジェンダーとオモチャ

男の子と女の子で興味を示すものや遊ぶオモチャが違うのはなぜだろう。
社会学のジェンダー論からすれば、それは大人の思い込みから性別により与えるオモチャが違い、大人の誘導が大きいということになると思う。
確かにそのような面もあると思うが、うちにいる2歳と4歳の男の子をみると、車が好きで、うちには近所からもらったものを含め100台位の車のオモチャがある(100円ショップで買う車も、今は動き精巧に出来ている)。
特に消防車、パトカー、シャベルカーが好きで、それをいじったり,テレビやビデオやyou tubeでそれらの車を見ていると飽きない。(うちで二人の娘を育てた時は、全く自動車には興味を示さなかった。)
今日は、消防車やパトカーの実物を見ることができたようで大喜び。将来は消防士になると言っている。
ジェンダーの問題をオモチャから考えてみるのも面白いと思った。

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猫のこと

前に書いたように近所に、野良猫の寝床と食事を用意している家があり、うちの庭を猫がよく横切ったり、庭に来たりする。
猫の糞尿は犬以上に臭いし、うちは野鳥の餌箱も庭にあり、鳥が猫に狙われるのを嫌って、庭に猫がいると、水をかけて追い払っていた。
ところが、最近、家人も犬(ソフィー)も庭に来た猫と遊ぶようになり、追い払うことはなくなった。
庭で寛いでいる猫をみると、それなりにかわいく、近づくと逃げる猫,すり寄ってくる猫、猫パンチをしてくる猫もいて、まだ、猫の性格はよく掴めないが、猫も捨てたものではないなと、思うようになってきた。

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平凡な感受性

好きな作家をあげろと言われれば、その一人に古井由吉をあげることであろう(ただし私は初期の頃の小説しか読んでいない。)
私は若い頃、芥川賞を受賞した「杏子」や「妻隠」「円陣を囲む女たち」「行隠れ」といった古井の初期の作品は何度も読み、古井由吉の感受性やその文体に惹かれたように思う。
でも、その感受性は精神の病と紙一重のところもあり、そのようなものに惹かれるのは少し危ないとも感じていた。周囲の人に薦めてもあまり共感は得られなかった。

最近新聞で、古井由吉を「現存する日本語圏最大最高の作家」と言われているという記事を読み((朝日新聞3月19日朝刊)、私の感受性は、日本人の平均に近く、かなり平凡であることを知った。

スポーツの効用、読書力の衰え

ここのところ体調がすぐれず、憂鬱な日々を過ごしてきた。微熱があり、咳やくしゃみが出て、血圧も不安定であった。ほとんど行かない医者に2度も行き、肺のレントゲン写真を撮り、4種類の大量の薬を飲み続けた。
体調不良が長引くのは、どこか悪いのか、風邪をこじらせたせいなのか、花粉症のせいなのか、ストレス(研究室のかたずけ等)のせいなのか、歳のせいなのか、わからないまま、1か月近くが過ぎた。
2~3日前からやっと体調がもどった気がしたので、昨日(18日)は1か月以上休んでいたテニススクールのレッスンに参加し、今日(19日)は卓球愛好会の練習に参加した。テニスも卓球も、久しぶりで息が切れミスも多かったが、それなりに満足するショットが打てて、運動後の体も軽やかで、やはりスポーツはいい、高齢者には必要だと感じた。

遅まきながら今話題の村上春樹の小説『騎士団長殺し』(新潮社、2017年2月)も読みはじめた。1日あれば小説は1冊読むことはたやすい(=今のスカスカの新書などは15分あれば読める)と思っていたが、なかなかページが進まない。文章は読みやすいし、登場人物も魅力的だし、ミステリーのように先がどのようになるのかワクワクするし、読み進まない理由は小説の方にはない。私の読書能力が落ちたことに原因がありそうで愕然とする。
痴呆老人を描写するのに、「オペラとフライパンの違いだってわからない」、豪華な中古別荘を購入し住む人を「ヤドカリ」と形容するなど、作者の言葉遣いに感心する。
また登場人物の乗っている車の種類(ジャガー、青のプリウス、赤のミニ、黒のボルボワゴン、色の不確かなカローラワゴン)も象徴的で興味深い。
主人公が肖像画を描く時、その人の表面をみるのではなく、その人の内面の核心部分を把握して描くなど、考えさせられる記述も多い。(私達の研究も同じではないかと思った)。
小説も映画と同じで、読者の関心の部分に引きずられて読むので、的確な感想を述べることはできないと思うが、早く読み切って、他の人の感想と突き合わせてみたい。

村上春樹の 小説には超自然現象がよく出てくる。そのようなものを私はほとんど信じないが、今日父母のお墓詣りに行ったら、ちょうど同時刻に妹家族がお墓参りに来た。まったく連絡をしていなかったのに、このような鉢合わせをしたのは、日頃会うことの少ない兄妹(家族)を,亡き父母が会わせたのであろうかと、村上春樹の超自然現象を少し見直した(?)。