娘たちからのプレゼント

紅葉をその最盛期に見に行くのは難しい。紅葉の時期の予想が外れるということもあるし、都合でその時は出かけられないという時も多いし、混雑して宿の予約は取れない場合もあるし、道が渋滞してなかなか行き着けないこと、また雨の場合もある。

娘たちが親の歳の節目にと、紅葉狩りのホテルの宿泊をプレゼントしてくれたので、妻と日光に紅葉を見に行った。(11月9日、10日)。
日光のいろは坂の上の方の紅葉は既に終わっていて、カエデなど一部に赤い色が見えるだけであった。それでも、坂の下の方は、まだ色鮮やかであった。
もう紅葉にはシーズンオフということで、道路は空いていて(千葉から日光まで車で2時間半)、宿も中禅寺湖畔の「ホテル四季彩」(http://www.hotel-shikisai.co.jp/voice/)というなかなか予約の取れないテルに泊まり、極上の料理(和食)と露天風呂(硫黄泉)を楽しむことができた。
中禅寺湖、戦場ヶ原、竜頭の滝、華厳の滝という観光スポットも、渋滞がなくスムーズに周り、静かで落ち着いた日光を楽しむことができた。娘たちに感謝。

授業(「教職概論)メモ(11月11日)

国の求める教員像(中教審答申も含める)、都道府県の求める教員像(教員採用試験も含める)をこれまで、授業で見てきましたが、今日は別の観点から教員像を考えてみたいと思います。
それは、文芸(映画、小説、漫画)に描かれている教員像の検討です。それを検討することは、次のような2つの意味があると思います。
第1は、それらは、国や教育委員会の型にはまった理想的教師像とは違って、「教師という人間をその生活全体において丸ごととらえた」教員像(原田彰)が描かれているからです。現実の教師の、教師役割とその役割からはみ出す行動との葛藤を、文芸作品は描いています。
「二十四の瞳」の大石先生には、「師範タイプ」(権威主義的)からはみ出す「茶目っ気」があり、その葛藤がよく描かれています。それが、現実の教師らしさでもあります。(一部ビデオを見せる)
第2に、「理想的教師像」を構成している価値観を一度解体して再構成してみる必要(山田浩之)があるからです。
特に漫画に描かれる教師像は、理想的教師像を揶揄し、教師の隠れた欲望をストレートに描くことにより、教師像の再構成を促します。1960年代末の「ハレンチ学園」は教師という存在を貶める役割を果たしました。そこからの再構築が必要です。
また、子どもに人気のあるキャラクターには、子どもの教師への願望が描かれています。(いくつかのマンガを紹介)
この分野の研究としては、原田彰『教師の現在―文芸からみた子どもと教師』(ハーベスト社)、山田浩之『マンガが語る教師像―教育社会学が読み解く熱血教師の行方』(昭和堂)があります。
皆さんも日頃見たり読んだりする映画、小説、漫画に描かれた教師像がどのようなものなのか考え、そこから教師像を描いてみてください。

私自身は、思考が硬いのか(?)、上記の第2の教師の欲望等を極端に描くことにより隠れているものを暴露(教師を貶める)するという方法に、多少違和感があります。確かに、極端を描くことによりなんとなく感じていたことの意味を白日のもとに晒すというのは効果的な方法だと思います。
マドンナの「マティリアルガール」の映像に見られるように、「多くの宝石をみにつけ、濃い目の名メイクをし、がらくたぽいものを身につけることによって、パロディによってえられるものと同じ視点を読者に与える。極端さによってわれわれはそのイデオロギー性に気がつくようになる」(ジョン・フィスク・山本雄二訳『抵抗の快楽』(世界思想社)。
女性のファッションや化粧のもつ意味やイデオロギー性を、マドンナの極端な表現が暴露しているというのは、理論的にはよくわかるのですが、私の感覚がついていけません。
皆さんの感覚での捉え方も聞いてみたいと思います。今は「お笑いブーム」ですね。それは、極端を描き、硬い囚われからのからの解放を、笑いのうちに求めているということでしょうか。
今日は、現実の教師像について、その捉え方の方法とともに、いろいろ議論できればと思います。

大学祭

今日(8日)は、敬愛大学の大学祭(敬愛フェスティバル)のⅠ日目。こども学科の学生が活躍しているので、それを見に行った(正確にはわからないが、こども学科の学生の3人に一人は、フェスの委員会のメンバーで、1週間以上放課後残り、準備をして来たのではないか。準備の段階でも、お揃いのスタジャンを着て、気分の盛り上げているのが、可笑しく、かわいらしかった)。4年生も一緒に参加していて、異学年の交流になっている。地元の人も、子ども連れで来ている姿も見られ、大学と地域の交流に一役買っている。地元のちびっこ子のヒップホップが上手で(3歳〜4歳くらいの子のステージが、リズムにしっかり乗り、上手で好評を博していた)。このように、地域の人も巻き込んでのお祭りに好感が持てた。
ゼミの学生がバンドの出るというのでそれも聴きに行った。それなりに上手だったが、バンドや歌は、人に見せたり聴かせたりする以上、もう少し練習が必要ではないかと思った。自分達が楽しいのと、聴衆が楽しいのは全く別ということはわかっているのであろうかとも思った。自己陶酔して歌ったり演奏したりは論外で、冷静な計算が働かなければ、人に感動を与えることができない。

秋の稲毛海浜公園

ソフィーの散歩に、稲毛海浜公園に行く。同じ犬種のキャバリア犬(3歳)に挨拶。
菊の季節、丹精を込めて作られた菊を鑑賞。

菊の美―犠牲の上の美

菊に関しては、以前にも書いたが、少し複雑な思い。
このような究極の美のような菊の成長の陰には、成長の途中で摘み取られた多くの菊のつぼみがある。

少し飛躍し過ぎかもしれないが、宮崎駿の「風たちぬ」の主人公二郎の作る飛行機の美の陰には、多くの犠牲がある。犠牲があるから美しいと考えるのか、そのような犠牲に上に打ち立てられた美は疎ましいと考えるのか、複雑な思い。(ネットからの転載)
http://blog.goo.ne.jp/sombrerorecords/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

<「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。
才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。( 横岩良太)>