当たり前を疑うー教科の分類について

私は哲学に関しては全く無知であるが、当たり前だと思っていたことを疑ってみることは楽しい。それは、山本雄二氏が次のようなことを書いていたことに通じる。

つまり鬼の角が1本か2本かをめぐって激し論争があった場合、そのどちらに組するのではなく、その前にその二つの立場が共通に前提にしていること、すなわち「鬼は本当に存在するのか」ということを考える必要がある。

現在教育界では「教科横断的な教育課程の編成」が盛んに議論されている。上智大学名誉教授の加藤幸次先生も『教科等横断的な教育課程の編成の考え方・進め方』(黎明書房、2019.6)という優れた本(添付)を出版され、議論を巻き起こしている。加藤先生から既存の教科の分類は、1つの分け方に過ぎないということも教えていただいた。

私たちが当たり前と思っている学校の教科―国語、算数、理科、社会、英語、保健・体育、芸術(音楽・美術・書道)、技術・家庭-は、いつの時代から、どのような根拠に基づいて分類され、学校現場に定着したのであろうか。それは、時代とともに変遷してきたのであろうか。また、諸外国も同じような教科分類を使っているのであろうか。(日本の場合、明治維新や戦後に、欧米の影響がかなりあったことが考えられる)

また学問の各分野の内容は、大学から高校以下に降ろされて当然と思うが、日本の教科の実際を見てみると、大学と高校・中学・小学校の間には大きな断絶がある。                                                                   国語、算数(数学)、理科、社会(地理、歴史、政治、経済)、英語、体育、音楽、美術、家庭、技術、情報などは、小中高の科目にあり、比較的大学の科目の中にも存在するが、哲学、人類学、民俗学、社会学、心理学、教育学などは、大学ではじめて設けられる科目であり、小中高と大で断絶がある。なぜ、このようなことがおこるのか。諸外国はどうなのか。(もしかしたら、このようなことは既に研究され、論文や本を出版されているのかもしれない。これから調べるつもり)

追記;大学入試問題に詳しいI氏より、下記のコメントをいただいた。

高校にあって、大学にない科目は、「現代文」と「世界史」です。 「現代文」はさまざまなジャンル(学問分野)の文章が出てきますが、それぞれの学問分野を扱っているわけではなく、その結果、大学入試では出題委員に任命された大学教員が、好き勝手に(?)自分の専門分野(あるいは単に最近読んだ本)からかなり無造作に出題している印象。 「世界史」(world history)は AP なども科目にもあったりはしますが、大学では西洋史/東洋史、さらに細かく分かれるのが普通で、一人の教員が、古代から現代まで、全世界全部教えるという無茶苦茶な科目は大学にはありません(高校世界史でも、本当に全時代全地域均等に扱っているわけではないですが)。 哲学・心理学・社会学の入門的内容は、高校公民の「現代社会」「倫理」にうっすら入っています。 センター試験現代社会で「フランクフルト学派」が普通に出ていたりします。 高校の「簿記会計」や「政治経済」は、社会科学系学部の大学生は、大学でコッテリやるはずですが、高校では未習なことが多い (「簿記会計」はそもそも高校の普通科ではなく、商業科でしか開講されていない)。 諸外国は、 IB(バカロレア) https://www.ryugaku-voice.com/genre/children/us-mm_ibsubjects.html AP(advanced placement test:高校カリキュラムと連動しているものと、独立して試験のみのもの、とがあったはず) https://apstudents.collegeboard.org/course-index-page CLEP(試験による大学基礎科目の単位先取り(大学が認めている場合のみ)。高校生でも受験可能) https://clep.collegeboard.org/exams の各科目を見てみると宜しいかと。