古井由吉 『杏子 妻隠』について (その2)

齢とってからこんなことはしないが、若いころ(20~30歳の前半の独身のころ)は、自分の好きな本を人に読むように薦めていたように思う。特に自分のことをわかってほしい人に対しては、自分の好きな本を渡して読んでほしいと頼んだ。それは自分の感受性の奥底にあるものを理解してほしという切なる願いだったように思う。(それは一種の踏み絵あるいはリトマス試験紙のようなもので、その人が自分の気持ちがわかってくれる人なのかどうか判定できると思ったのかもしれない)。本を渡された人は、私の押しつけがましさにさぞかし迷惑したことあろう。友人になれそうな人が、いっぺんに去っていったこともある。相手が女性の場合、怪訝な顔をされ、だいたいうまくいかなかった。

その時、私は人に薦めた本が、古井由吉の『杏子・妻隠』である(1971年、第64回芥川賞受賞作)。「杏子」の本の内容は、後の感想にあるように内向の世代の古井由吉が、精神を病んだ女性との共依存のような関係を独特の文章で描いたものである。そのような本を薦める私の精神状態が疑わられたのであろう。              (古井由吉は、その後日本を代表する大作家になっているので、私の感受性は特異なものではなく平凡なものであったことが証明されているが)(2017年3月20日ブログ参照)

 この本に関するネットの感想を一部転載しておく。(読書メーター https://bookmeter.com/books/573987

<『杳子』冒頭の谷底のシーンが圧巻。畳みかけるような思考の流動に、こちらの視点も揺さぶられる。詳細に練られ、綴られていく異常心理は、読むものを不安に導く。こういった男女の関係性が書かれたのは、この作品が戦後初のような気さえする。発表されて半世紀近くが経過しても、古びた作品に感じないのは、人間のメンタリズムや関係の閉鎖性という普遍をとらえているからであろう。> <すごい。ここまで自分の不確かさ、不安を書けるのか。⚫️いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。[・・・]その岩の塔が偶然な釣合いによってではなくて、ひとつひとつこ岩が空にむかって伸び上がろうとする力によって、内側から支えられているように見えてきた。ひとつひとつの岩が段々になまなましい姿になり出した。それにつれて、それを見つめる彼女自身の躯のありかが、岩の塔をかなめにして末広がりになってしまい、末のほうからたえず河原の流れの中へ失われていく              生の深い感覚へと潜り込んでいくような空気が襲いかかります。感性と筆致が濃密であるが故の心の深淵を震わせる作品と言えるでしょう。退廃的で、丁寧な閉塞感が、2作品に共通する危うい男女間を描いているように思えます。壊れそうで気怠い雰囲気に浸るのが心地良い。抽象画のような文学で、物語が五感に染み渡るような印象を残します。>  <妻隠は夫婦愛というより妻のことを女として見つめる同棲者の視点が面白い。性愛を野太く描いた言葉の美しさも妙。>