偉人の後世への伝達

仙台在住の水沼文平さんより、水野文夫先生の仙台での井上成美に関する講演の内容の紹介がありましたので、そのまま掲載させていただきます。
過去の偉大な人の様子が、それに感銘を受けた複数の人を媒介に伝わっていくのだと思います。

5月17日、私の友人が関わっている仙台の秋桜会で東京大学名誉教授の水野丈夫先生が「ある男の生き方~海軍大将 井上成美(しげよし)」についてお話しをされました。講演の概要をご紹介します。なお水野先生は戦時中海軍兵学校に在籍されました。

《井上成美は、仙台出身で、米内光政、山本五十六と共に「三国同盟」「アメリカとの戦争」に反対、太平洋戦争末期には海軍次官として終戦への道筋をつけた人物です。終戦後は相模湾を望む横須賀市長井荒崎に蟄居、近所のこどもに英語を教えたりして晩年をひっそりと過ごしました。
井上成美の出自ですが、父は宮城県庁に勤務した元旗本、母は角田の殿様、石川家のお姫さまです。生家は八幡神社の裏当たりで、父親が役所を辞めブドウ園を経営していました。師範学校付属小学校、仙台二中を卒業、海軍兵学校に入学しています。
成美の生涯のモットーは「Noblesse oblige(ノーブレス オブリージェ)」(位の高いものは義務を負う)で、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで在職中に三度も右翼や憲兵に命を狙われています。一回目は昭和7年(42才)海軍省軍務局課長時代、政府の所管である予算や人事に軍令部が過度に介入する懸念がある「軍令部条例改定案」に猛反対、命を狙われ、その時「俺を殺しても、俺の精神は枉(ま)げられないぞ」という遺書を書いています。二回目は昭和12年(47才)海軍省軍務局長時代の時です。「日独伊三国同盟締結」を拒否、この時ヒットラーの「我が闘争」を原書で読み、翻訳にはない黄色人種に対するヒットラーの蔑視に激しい怒りを持ちました。三度目は昭和19年(54才)海軍次官の時で「戦争終結への決断と行動」を教育局長高木惣吉少将と開始しました。
成美は教育者としても優れていて昭和5年(40才)海軍大学校教官時代にルソーやペスタロッチを熟読、新しい教育思想・哲学を吸収、「教育とは教えることではない、引き出すことだ」という考えに至ります。因みにeducationの語源はeduceで「引き出す」という意味です。この精神は戦後相模湾を望む崖上(がけうえ)の陋屋に隠棲、英語塾を開き、なるべく日本語は使わず子どもたちにともに英語で語らい、英語で歌いました。》
水野先生のお話は仙台の聴衆に大きな感銘を与えました。郷里が生んだ偉人として彼の言動を心に刻んでおきたいと思います。(水沼文平)