セクハラ問題について

セクハラに関する論議は今盛んで、これまで弱者で沈黙を強いられてきた女性が発言できるようになってきたことはとても好ましいことだと思う。
ただそのメカニズムは社会的なことと心理的なことが複雑に絡んでいるので一筋縄ではいかない。社会学者の活躍の場である。
私が昔勤めていた武蔵大学には社会学部があり、そこにはすぐれた社会学の研究者がいるようで、最近でもジェンダーの社会学研究者の千田有紀氏が、明快な議論を展開していた。それでも、まだ納得できない部分があり、この分野は難しいなと思う。

「セクハラ 被害者・加害者、ねじれる認識」
<被害者と加害者が、いっけん逆転してしまうものがある。DVや虐待の問題、そしてセクシュアルハラスメントである。どれも構造が実によく似ている。
 被害者はまず、自分が受けた経験を、「セクハラと呼んでいいのか」と自問する。それから、自らの言動を振り返って、誤解を与えるような態度がなかったかと自分を責める。
 対して加害者の側は、なぜか被害者意識に凝り固まっている。「自分は何もやっていない。加害者に仕立てあげられた。自分こそが被害者である。むしろ相手が謝るべきだ」は、典型的な反応である。それは加害者の側が、自分がもつ大きな権力の自覚がない。もしくは、その権力を当然だと思っていることから来ている。
 金子雅臣さんの『壊れる男たち セクハラはなぜ繰り返されるのか』は、自覚のないセクハラの例がたくさん記載されている。「急な用事があって」と退社後に追いかけてこられ、車で山中に連れ込まれ、意に添わないならばそこで降りろといわれれば、女性なら恐怖を覚える。しかし男性の側は、のちに訴えられても「『仕事のこと』といったような気もしますが、でも、それはどうでもいいこと」と、仕事を口実としたのかすら、覚えていない。明らかな非対称性があるのだ。
 ■「不快」と客観判断
 正社員で役職者の男性は、労働市場で不利な立場にいる女性の失職の恐怖に、想像が及ばない。女子正社員にはできないセクハラも、「派遣やアルバイトで来る娘(こ)たちは別」と屈託がない。女性は就労する必要がなく、職場にいるのは性的対象にされるためとでも思っているようだ。男性社員たちは、自分の行動の事実は認めるのに、セクハラではないと解釈しているのが、印象的である。
 黒澤明監督の「羅生門」は、芥川龍之介の『藪(やぶ)の中』を下敷きにした映画である。同じ出来事も、立場によって見え方はまったく違う。
 「羅生門」を引きながら、被害者と加害者の認識のギャップをさらに紹介しているのが、牟田和恵さんの『部長、その恋愛はセクハラです!』である。近年は少しはセクハラの理解が進んだからか、「受け手側が不快に思えばセクハラ」という声をよく耳にする。しかし牟田さんはこの言葉が被害者の感覚を尊重するものではあるが、絶対ではないという。受け手の不快さだけではなく、社会的常識に照らし合わせてある程度「客観的に」セクハラは決められるのだ。訴えられたときの対策も、あえて加害者の立場に立って、被害者の状況や気持ちを解説してくれる、実践的な本でもある。セクハラをしてしまっても、被害者の気持ちや立場を尊重して対応することで、事態も収束しやすくなる。
 ■日本のMeToo
 日本のMeToo運動を牽引(けんいん)したのは、なんといってもひとつは伊藤詩織さんの『Black Box ブラックボックス』だろう。詩織さんは、自分が受けた性暴力と、逮捕状まで出ていた加害者がなぜか裁かれない司法の不正義について書いている。福田淳一・前財務省事務次官のセクハラ問題は、前次官が要職についていたことにより、事態が複雑化した。被害者は詩織さんの行動に勇気をもらったと伝えられている。
 詩織さんもまた、権力をもつ者によって引き起こされた性暴力が、まさに相手の権力によって訴えが困難になるという経験をしている。この本の素晴らしさは、正義の追求は同時に優しさでもあるということを示している点にある。今存在する暴力に毅然(きぜん)と立ち向かうこと。それは、未来に生じ得る「潜在的被害者」をなくすことにもつながるのだ。(千田有紀、武蔵大学教授)>(朝日新聞2018年6月2日朝刊より転載)