「政宗はおばあちゃん子だった」    水沼文平

仙台市の中心部から北西10キロメートルに「根白石(ねのしろいし)」という在所が
あります。標高1175mの泉ヶ岳の麓にある隠れ里のような田園地帯です。1591年この
村の白石城に高貴な婦人が移り住みました。彼女は「栽松院(さいしょういん)」と呼
ばれ、政宗の祖父晴宗の奥さんである「久保姫」でした。

政宗は秀吉の奥州仕置で1591年に拠点を米沢から岩出山に移され、福島に住んでいた
栽松院も上記のように根白石に移りました。

栽松院こと久保姫は岩城家の娘で白河の結城家に嫁ぐ途上、久保姫を見初めていた伊
達晴宗がその行列を襲い略奪しました。岩城も伊達も同じ福島県内なのでどこかで接
点があり相思相愛の仲だったのかも知れません。久保姫にはかわいい笑窪(えくぼ)
があり「笑窪姫」とも呼ばれています。晴宗と久保姫の二人は仲むずましく11人の子
をもうけました。伊達家を継いだのは政宗の父である次男の輝宗です。

さて栽松院は1593年に根白石で亡くなります。1600年の関ケ原の後、1603年に政宗は
拠点を岩出山から仙台に移します。

米沢で生まれた政宗は幼児の頃、疱瘡を患い片目を失います。母義姫の愛情は弟小次
郎に傾き、いじけたこの少年に愛情を注いだのが祖母の栽松院であり、人の生き方、
あるべき姿を教えたのが京都から来た虎哉和尚です。政宗は生涯生母よりも祖母を慕
いました。政宗は「おばあちゃん子」だったのです。

仙台に移った政宗は青葉城を要に人々が暮らし易いように街の中心に商業地区を置
き、人々を魔物から守るために陰陽道による星型の結界を張りました。

根白石に行くには5つの寺が並ぶ北山を越え、中山経由の白石街道を通るのが一番の
近道でした。私の育った荒巻は梅田川が作った窪地で、北山の北に当たり、猫の額ほ
どの田畑があり、北と西は荒れ地か山林でした。子どもの頃の記憶で根白石に至る狭
い山道を覚えています。

おばあちゃんの墓参りに青葉城を出た政宗が供の数騎と中山の細道を巧みな手綱捌き
でさっそうと登っていく姿が目に浮かぶようです。

仙台の北西の片田舎に歴史に足跡の残した人々の「ドラマ」を見出すことができるの
は心沸き立つ思いがします。今を生きる自分のために、過去に生きた人々の体温が伝
わってくるような歴史の認識と研究をしたいものです。