「帰還困難区域の際を歩く」(水沼文平)

仙台に在住の水沼文平さんより、福島の帰還困難地域のわきを歩いた記録を送っていただいた。写真とともに掲載させていただく。
原発事故や福島のことは、忘れがちな我々にとって貴重な報告である。あわせて2012年7月4日の朝日新聞の記事(藤原新也「私たちは国土と民を失った」)も添付で、掲載しておく(武内)

11月23日、昨年避難を解除された双葉郡葛尾村に行きました。仙台の自宅での放射線量は毎時0.04マイクロシーベルトでした。(放射線測定器 はロシア製のガイガーカウンター RADEX)
郡山駅で新幹線を降り、会津から車で来たYさんに合流、郡山駅前の放射線量はμSv 0.19/h、途中の田村市のコンビニはμSv0.15/h、葛尾村がμSv 0.22/hでした。
葛尾村のメインストリートの商店は閉まったままで、見かけた住民はおばさんと除染工事関係者らしき男性だけで、道路を走っているのはダンプなどの除染運搬者とパトカーだけでした。二階建ての立派な村役場があり、その道路向かいに葛尾小学校がありました。小学校から少し入ったところに新しい団地があり、十数戸が建っていました。空き家らしきもありましたがカーポートに車があり居住者がいることが分かりました。
帰還困難地区である双葉町の方に入れないことは分かっていましたが検問所まで行ってみることにしました。
村の中心部を離れてすぐ「大型土のう」を積み上げ防水シートを被せた「仮置場」を見つけました。道路と小川の間に巨大な10ほどの台形の仮置場がありました。
途中の田や畑は荒れたままでしたが、切り株のある田もあり「はさがけ」も見ました。
20分ほど走り、検問所に着きました。警官ではなく民間の管理会社の人に止められ、
許可がない限り入れないことの説明がありました。そこで測った放射線量はμSv0.35/hでした。
次の目的地をいわき市に定め、地図上では、双葉町、大熊町の帰還困難区域の西側に
沿って車を走らせました。
海側に入る道は作業車以外立ち入り禁止でした。軍事施設でもないのに日本の中の立
ち入り禁止区域、理不尽で納得のいかない異様な風景でした。
道路の脇の家屋には廃屋が多く見られ、帰還解除区域でも戻らない人が多くいるのが
分かりました。あるいは「避難指示解除準備区域」なのかもしれません。
そこで測った放射線量はμSv0.48/hで第一原発の近いところにいるという緊張感を覚
えました。
玉の湯温泉あたりまでの路肩に「大型土のう」が積まれ、作業小屋が多く見られまし
た。「歩行者、自転車、二輪車は通行禁止」の地域が続きましたが、大野あたりから
人の動きが見え始め、マスコミ報道で馴染みの富岡町、楢葉町、広野町を通っていわ
き市にはいりました。
楢葉町では2年前に避難指示解除になっていますが、木造の仮設住宅が30棟以上ある
ところを見ました。仮設の供与が来年3月までとなっているのですが、避難世帯の36.2%(415世帯)が供与終了後の住宅が決まっていないようです。
いわきに着き、四ツ倉で遅い昼食を取り、白水阿弥陀に参拝することにしました。雨模様の天候でしたが、阿弥陀堂に着いたとたんに眩しいほどの陽が差し始めました。放射線量はμSv0.12/hでした。
国宝「白水阿弥陀堂」は 平安時代末期の 岩城氏の妻・徳姫 藤原清衡の娘)によって建立されました。阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれており、 浄土式庭園の様式を取り、平泉の 毛越寺や 無量光院といった寺院の影響を受けています。
放射能汚染で荒廃した町や村を見た後に西方浄土を見た思いでしたが、この日に見た町や村もかつては浄土のようなところであったろうと複雑な思いに駆られました。
昨年避難を解除された飯館村の村民の帰還率が8%、小中学校の就学希望率が12%となっています(民の声新聞より)。
葛尾村でも来年4月から小中学校を開校する予定ですが、避難先の三春町からスクールバスで通学させるという話もあり、震災前の姿に戻すには前途多難の感があります。

写真の一枚目は葛尾村の中心部、左の建物が小学校、右が村役場、二枚目が除染土壌
の仮置場、三枚目が白水阿弥陀堂です。(水沼文平)

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