「傘がない」の英訳詞について

ヒットする歌は、多様な解釈が可能なものが多いと言われる。マドンナの「ライク ア バージン」も一つの言葉にいくつもの意味を込めている、とフィスクは解釈している。(山本雄二訳「抵抗の快楽」)

1970年代初頭に一世を風靡して今もカラオケなどで歌われる井上陽水の「傘がない」も、多様な解釈が可能だからであろう。これについては、私のブログでも2012・5122017116で言及している。前者では、次のように書いた。

<東京成徳大学の「青年文化論演習」の授業で、井上揚水の「傘がない」に対する副田義也先生の分析を紹介した(『遊びの社会学』)。1970年代に入り、学生運動が終焉して、若者の関心が社会的なことから私的なこと(恋愛や自分の心理)に移ってきたという分析である。授業では、彼は君(彼女)に会いに行くのか? 「君」や「雨」や「傘」は何を象徴しているのか?ということで盛り上がった>(2012・512

最近、『井上陽水英訳詞集』 ロバートキャンベル〈著〉という本が出たということを新聞の書評欄で知った(添付参照)。英語というのは日本語と違い論理的な言語なので、かなり明確な歌詞の解釈を示さないと翻訳はできないのではないか。マドンナの歌詞のように一つの言葉に多様な意味をかぶせることができるのかと思った。また、「傘がない」に関しては、井上陽水自身が下記のように言っているというのが紹介されているが、それは今の本人の解釈であり、作詞当時がそうであったのか、また作詞者の意図と作品の内容は別(作品は作家から独立している)ということも考えられるが、一つの新たな解釈として興味深いと思った。

「都会では自殺する若者が増えている」という出だしから、「だけども問題は今日の雨 傘がない」への転換が印象的な「傘がない」。I’ve Got No Umbrellaと訳そうとする著者に対し、陽水はこれは「『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです」と答える。(朝日新聞、6・29より転載)

一般的には、「傘がない」では、「雨」は若者に降りかかる社会や世間の過酷な状況や冷たさを象徴し、「傘」はそれ防ぐ若者自身の能力を表していると解釈できると思うが、「『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです」という井上陽水の自身の解釈をどうとればいいのか。是非、ロバートキャンベルの訳詞を読んでみたいと思った。