「話は聞いてみるもの」  水沼 文平

《その1》

5月上旬自転車で郊外の田んぼ道を走った。泉ヶ岳と北泉ヶ岳、遠くに青い船形連峰が見え、さわやかな風に吹かれ気分は最高であった。田植えが終わり20センチ位の苗がきれいに並んでいる。その中で所々に10本位まとめたものが植えてあった。これはコンピュータ制御の「田植え機」のミスだとひとり納得してほくそ笑んだ。

後日、農家出身の知人に聞いたら、それは田植えの後に人の手で植えられてもの、苗にも発育不良のものがあり、それらのピンチヒッターとなるものだという。

子どもの頃、庭の隅に野菜畑があった。母が春に大根の種をまき、芽が出ると間引きしていた。子ども心に疑問に思い母(小学校の先生)に聞いてみたら「全部残したら土の栄養を食い荒らして共倒れになる」と言っていた。東北での冷害時の「間引き」も念頭に入れた回答だったのかも知れません。

黙っていても食が口に入る時代、口に入れる前に、植え替えたり、間引きをしたり、
追肥をしたり、支柱をたてたり、手間暇をかけて育てる農産物にもっと関心を持つべ
きだと思った。

《その2》

5月下旬、東京から来た友人を山形県河北町の「紅花資料館」に案内した。途中県境の「関山峠」を越えた所に大きな滝がある。隣接する茶屋は「玉こんにゃく」と「ずんだ団子」が有名である。行きは「玉こん」、帰りは「ずんだ」と決めていて、「ずんだ」の売れ切れを懸念してキープしておくことにしている。さて、芭蕉の俳句で有名な山寺も訪ねた後帰路につき「ずんだ」を楽しみに茶屋に寄った。串を手に取っていざ口に入れようとして気がついた。昨年の秋は両面にずんだが分厚く塗り込めらえていたのに片面しかなかった。しかも値段は同じ100円である。これはずんだの量を減らして儲けようとしているなと確信した。

後日、農業に詳しい同級生にその話をしたら、ずんだの原料となる大豆がいつ獲れるのかも知らないのかと叱られた。大豆は秋に収穫されるので茶屋では両面に分厚く塗り、春は大豆の保存量が少ないので片面になるということであった。
百姓の孫である私がこんなことも知らず恥じ入った次第である。

《その3》

6月中旬、知人の見舞いに病院に行った。自販機がたくさん並んでいるコーナーで車椅子の知人と話をしていた。そこに自販機の会社の人が来たので前々から疑問に思っていたことを聞いてみた。それは自販機に付随した「空缶入」のことである。店によっては置いていないところもあり、自販機の後ろに隠しているところもある。「空
缶入の設置義務」について質問をした。答えは「空缶入」の始末は自販機会社の仕事で、設置如何は大家さん(店主)の任意だという。空缶入にコンビニ弁当の容器が
入っていたり、空缶入に家庭ゴミが置いてあったりして、多くの大家さんが空缶入の
設置を嫌う傾向にあるとのことであった。十年ほど前、鎌倉のある有名なお寺の門前の商店に「空缶入」がないと言ってカンカンになって怒っている爺さんがいたが、店
の人は平然としていた。私は爺さんに理ありと思っていたが、店の人にもそれなりの
理由があったのだ。昭和33年に始まった道徳教育(私も受けた)が何であったのか、
現在、バスの優先席のスマホ女子高生を見るにつけ、道徳教育の抜本的な見直しが必要ではないかと思う。それよりも我が子に対する家庭教育に問題があったのではないかと、あれこれ自省を込めて考えている。

以上、自分が正しいと思っていたことが誤った「思い込み」であったケースを例示し
たが、私の場合こうしたことが他にもたくさんあるように思われる。問題だと思った
ことを他者に話をする(というより吹聴する)ことによって自分の馬鹿さ加減が分か
り、真実を知ることはすばらしいことである。「話はしてみるもの、聞いてみるもの」である。

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